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Archive for 9月, 2011

ラスベガス自叙伝12万冊の普及祝賀

 天暦6月6日(陽暦7月6日)ラスベガスの訓読会において、真のお父様の自叙伝12万冊の普及記念の祝賀がなされました。米国では真のご父母様がおられる西部を中心に自叙伝が広く普及されています。今回の自叙伝普及活動は、各国で家庭を持ち、宣教活動を行っている日本の教会員たちが大きく貢献しました。

 

 ラスベガス都心のど真ん中を通過する15号線の両入口に自叙伝のビルボード(広告看板)が立てられ、自叙伝の普及はさらに活気づきました。また、ラスベガスのコミュニティカレッジでは、真のお父様の自叙伝が大学の東洋文化体験のための教科書として採択されました。さらには前UTS(統一神学校)総長が招しょうへい聘されて自叙伝の講義をするなど、自叙伝の普及活動は大きな影響をあたえるまでになっています。

神様との出会い

渡辺FE

 全国の成和学生のみなさん、こんにちは。青葉台教会で成和部のスタッフとして日々、多くの兄弟姉妹に囲まれながら、忙しくも楽しい毎日を送っています。

 多くの中高生と触れ合う中で、自分自身の学生時代を振り返ることが多くあります。鮮明ではない記憶をたどり、今の学生たちと自分自身の学生時代を重ね合わせながら、本当に多くの希望を感じています。教会でみ言を学び、神様の心情に触れた成和学生たちが、世界を必ず変えるという確信を抱いています。

 ただ、今の成和学生を取り囲む環境が、神様の望んだ本然の世界でないことも事実です。歪んだ情報にさらされ、二世としてのアイデンティティを見失いそうになる兄弟姉妹が多くいることも知っています。そのような簡単ではない環境に囲まれた成和学生たちに何を伝えることができるだろうと考えました。その中で“神様との出会いを多くしてほしい”ということを、私自身の経験も含めてお伝えしたいと思います。

神様との出会いと信仰の目覚め

 私は中高時代を新潟県で過ごしました。当時はまだまだ二世の数は少なく、特に地方ということもあって、礼拝には10人が集まるのがやっとでした。今の青葉台教会には礼拝ともなると60名、70名がすぐに集まります。これだけで、ただただ希望を感じてしまいます。

 もちろん、今のようなJr.STFも無く中和文化祭、成和学生大会もありませんでした。教会行事といえば毎週の礼拝と長期休みに行われる修錬会しかなく、教会の兄弟姉妹と過ごす時間よりも、学校の友達と過ごす時間のほうが必然的に長くなっていきました。

 そんな私が神様と出会ったのは高校を卒業した後でした。進路のことや、自分自身のことなどの悩みにぶつかり、何かを求める気持ちで始めた訓読会の中で神様に出会ったのです。神様に出会ったというよりは“親なる神様の愛に気づいた”という方が正しいでしょうか。ともかく自分勝手に生きてきたと思った自分の人生の背後に常に神様がいて、私が悲しい時には、さらに悲しい心情を持ちながらも、私を慰めてくれる神様がいることに気づいたのです。「ああ、これ以上神様を悲しませたらいけないな。僕が神様を慰めるんだ」と幼いながら決意したのを覚えています。

べテルの地で神に出会ったヤコブ

 「私はあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。(中略)わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語ったことを行うであろう。」

 この言葉は神様がヤコブにべテルの地で語った言葉です。エサウから一人逃げていたヤコブの孤独な心に、この声が届いた瞬間を想像してみてください。どれほどうれしく、どれほど心強かったでしょうか。それでは神様はヤコブにだけこのように語りかけ、私たちには沈黙をしているのでしょうか。神様はヤコブの父であると同時に私の父なのです。ヤコブに語りかけた神様が同じように私にも優しく語りかけてくれていることを想像してみてください。ワクワクしてきませんか?怖いことはもう何もありません。

神様に出会った分だけ

 全国の兄弟姉妹に伝えたいこと、それは「神様に出会ってください。」この一言です。この表現は正しくないかもしれません。「神様の愛に気づいてください」の方が正確かもしれません。そして一回だけでなく、何回も、です。神様に出会った分だけ、私たちの信仰は太くなります。誘惑の多い現代の環境で信仰を貫くことは簡単ではありません。そんな環境の中で私は神の子女であると大声で誇ることができないといけません。どんな誘惑にも耳をかさない、ただただ神様の声にだけ耳を貸し、その通りに動くことのできる私にならないといけないのです。

 ヤコブがべテルの地で神様に出会ったように、私たちも家庭で、学校で、教会で、神様に出会い、神様の子女として光り輝く成和学生になりましょう!!

預言者の道を歩まれたイエス・キリスト その1:荒野に呼ばわる者の声

 

洗礼者ヨハネbaptism

 前回まで、旧約の代表的なイスラエル王を見つめながら、“王であるキリスト”の姿を探ってきました。それは、福音書に描かれたイエス様の姿をいくら調べてみても、威厳をもって王の権能を現してはいないからです。なぜなら、天の父である神様が万王の王として地上に送ってくださったイエス様であったのに、33年間の地上生活において、ただの一度も王として迎えられたことはなく、人類の誰一人としてそれを認めることがなかったためでした。

 主にイエス様の公生涯を語る4つの福音書は、いずれも洗礼者ヨハネのことから始めます。マタイ福音者には次のように記されています。

 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教を宣べて言った、「悔い改めよ、天国は近づいた」。預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道筋を備えよ、その道をまっすぐにせよ』」と言われたのは、この人のことである。このヨハネは、らくだの毛ごろもを着物にし、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。(マタイ3・1-4)

 悔い改めの洗礼を授けるために荒野に登場した洗礼者ヨハネの風貌は、人々にすぐさま預言者エリヤを思い起こさせるものでした。また、彼の誕生の時には、父ザカリヤが聖霊に満たされて預言した中で「幼な子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう」(ルカ1・76)と、その行く末を告げています。

イエス様の公生涯のはじめ

 マタイ福音書に戻ってみると、この洗礼ヨハネのところにイエス様が現れて、ヨルダン川でバプテスマ(洗礼)を受けたこと。その後イエス様は荒野で40日40夜断食を終えたとき、悪魔の試みを受けそれをことごとく退けたこと。そして、洗礼ヨハネが捕らえられたことを記しています。そして、こう続きます。

 この時からイエスは教えを宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。(マタイ4・17)

 イエス様の公生涯のはじめ、その宣教活動は、洗礼者ヨハネが荒野で叫んだ言葉と全く同じ言葉で始まります。

 イエス様の公生涯は、エルサレムの神殿にのぼり、その玉座について、王の権威で“神の国”の到来を宣布し、全国民に新しい国における守るべき天の法を公布し、幸福なる生活の基本を見せることができたわけではありません。

 洗礼ヨハネと全く同じように、荒野に下り、あらゆる悪魔の誘惑を退けながら、人々に悔い改めを呼びかけ、神の国の到来に備えることを訴える説教をなしたのです。人々のなえた心を奮い立たせ、病に蝕まれた体を癒し、天の父に心を向けなおさせることに全精力を費やすことになるのです。それは栄光の王の姿ではなく、苦難の中を歩む預言者の姿でした。

預言者エリヤ

 古来伝統的キリスト教会においては正典とされ、プロテスタントの伝統では外典として扱われていましたが、共同約聖書には『続編』として収められた中に、「シラ書(集会の書)」という巻物があります。イスラエルの知恵と伝統を教えるこの書物の結びには、「誉れ高き人々をたたえよう、我々の歴代の先祖たちを。・・・諸国の民はこの先祖たちの知恵を物語り、神の民は先祖たちをほめたたえる」(シラ44・1,15)として「先祖たちへの賛歌」が記されています。そこでは、摂理歴史の中で神様が呼び出して、神様の夢を実現するために歩んだ中心人物たちが取り上げられていきます。

 彼の言葉は松明のように燃えていた。・・・エリヤよ、あなたはその驚くべき業のゆえに、どれほどほめたたえられたことだろうか。あなたと等しく誇りうる者があろうか。…あなたは、書き記されているとおり、定められた時に備える者。神の怒りが激しくなる前に、これを静め、父の心を子に向けさせ、ヤコブの諸部族を立て直す者。あなたを見る者、また、愛のうちに眠りについた者は幸いである。確かに、わたしたちも生きるであろう。(シラ48・1-11)

 旧約聖書に記された預言者エリヤに対する尊敬と賛美の言葉は、そのまま、祭司ザカリヤがわが子の行く末を思って語った預言と重なり、洗礼者ヨハネの歩むべき使命を言い表すものとなります。

 そして、洗礼者ヨハネがその道を全うできなくなると、救い主として来られたイエス様が代わって歩まざるを得なくなった道を示すものともなりました。だから公生涯を歩まれるイエス様の姿には、洗礼者ヨハネが歩むべき預言者エリヤの生涯が重なりあってくるのです。この時はまだ、“荒野に呼ばわる者の声”としてしか語ることのできなかったイエス様の心情や如何ばかりであったかと思わざるを得ません。

原理講論を読もう♪⑱

 

全てを知っていた神様picture

 前回では人間始祖のアダムとエバがどのような経緯で堕落したのかを学びました。聖書の中では非常に簡潔に表現されている堕落行為ですが、実際には長い時間を通して、自己の欲望だけを実現させようとした結果だということがわかりました。それではこの堕落行為が進行している間、神様は何をしていたのでしょうか。力づくでエバと天使長の仲を裂こうとはしなかったのでしょうか、もしくはアダムが堕落したエバに近づかないよう忠告しなかったのでしょうか。聖書の中で神様は堕落したアダムに問いかけます。

「食べるなと命じておいた木から、あなたは取って食べたのか…食べるなとわたしが命じた木から取って食べたので地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る…」(創3・11~3・19)

 神はアダムとエバに問いかけ、叱責はしますが、どこにも堕落行為を止めようとした形跡はありません。結論的に言うと、神様はアダムとエバの堕落行為についてよく分かっていました。しかし神様は堕落行為を防ぐためにアダムにも、エバにも、そして天使長にも直接的に手を下しませんでした。全知全能な神様にも関わらず、堕落行為について何もできなかったのでしょうか。そうではなく神様は堕落行為に干渉したくとも干渉できない理由があったのです。

堕落行為に干渉しなかった理由

 原理講論では神様が堕落行為に干渉しなかった理由を三つに分けています。

①創造原理の絶対性と完全無欠性のために (原理講論 P129~130)

 創造原理で学びましたが、人間が完成するまでの期間を成長期間と呼びます。成長期間は人間が自らの責任分担で人格を完成させていかなければいけません。この期間は親である神様といえども人間の行動に干渉することができず、人間の行動の結果のみを主管することができます。アダムとエバが堕落したのは、この成長期間のできごとだったため、神様は人間の行動に干渉することができなかったのです。もしも神様が堕落行為に干渉すると、この創造原理に反することになり、創造原理に例外を作り出す結果になります。そのため神様は創造原理の絶対性と完全無欠性を守るために、人間の堕落行為に干渉されなかったのです。
神様が全知全能であれば、創造原理自体を変えることができるのではないかと考えることもできます。しかし例えばサッカーという競技を考え出した人がいるとしましょう。その人はサッカーのルールや競技内容を考える段階では創造主の立場でサッカーを創ることができます。しかしサッカーというスポーツをこの世に送り出した後は、誰よりもそのルールに従わなければいけなくなります。競技中に自分のチームが不利になったからといって勝手にルールを変更するようなことは絶対にできません。このように神様も自らが決めた創造原理を勝手に曲げたり、それに反する行動を取ることはできなかったのでした。

②神のみ創造主であらせられるために (原理講論 P130)

 神様はご自身が創造された原理的な存在と行動のみ干渉します。なぜかというと神様が干渉されるものにはそれだけで創造の価値が賦与されるためです。創造の価値が賦与されるということは、個性真理体として永遠にその存在を被造世界で認めることになります。言い返せば、もしも神様が堕落行為に干渉すると、それは創造の価値を賦与することを意味し、その行為の原因となったサタンと共に永遠にその存在自体を認めることになります。するとサタンは堕落行為の創造主の立場に立つことになります。神様はサタンを第二の創造主として認めるわけにはいかなかったため、堕落行為に干渉することができなかったのです。

③人間を万物の主管位に立たせるために (原理講論 P131)

 神様は人間を創造されたときに“万物を主管するよう”に祝福しました。人間は成長期間を自らの責任で完成することで、万物を主管する資格を得ることができるようになっていました。これは神様が人間を主管するように、人間が万物を主管するように創造されたからです。万物には与えられていない責任分担を果たすことで人間は万物の主管位に立つことができるはずでした。しかし人間は堕落することで万物の主管位に立つことができなくなりました。もしも神様が人間の堕落行為に干渉してしまうと、創造原理に反することになるため永遠に人間を万物の主管位に立たせることができなくなります。神様はたとえ時間がかかったとしても、復帰摂理を通して人間を万物の主管位に立たせることを選択されたのです。
こうした理由から神様は人間の堕落行為に干渉することができませんでした。しかし干渉できなかった理由があったからといって、神様はその堕落行為を見て見ぬ振りをしていたわけではありませんでした。むしろアダムとエバの一挙手一投足に関心を寄せ、目が離せなかったはずです。心臓がしめつけられるような気持ちでその経緯を見守り、血を吐くような思いで「取って食べてはいけない」という切実なメッセージを送り続けていたはずです。できることならば宇宙すべてをなくしてしまいたいほどの悲しみをもってアダムとエバの堕落を見つめていた神様でした。(天聖経/罪と蕩減復帰より)もしもアダムとエバが少しでも神様の願いと心情を考えることができれば、堕落を防ぐことができたかもしれません。私たちは二度と神様に悲しい思いをさせることのないよう親の願いを知り、それを実現できるように信仰生活を守っていきましょう。