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Archive for 6月, 2011

北東京教区学生会

全国の兄弟姉妹の皆さんお元気様です。

 

 今年度は全体スローガン″神様を中心とした心情文化を安着させよう!″学生会スローガン“常に祈り、常に考える”を持って歩んでいます。スローガンに含まれている“安着”は定着を終え、二世の安住する地を願って付けました。このスローガンを“来たくなる教会学校づくり”をテーマして取り組んでいます。

 

①伝統

 

 北東京学生会は1997年から発足し今年で15期を迎えます。歴代の学生会長たちが気軽に成和学生部に訪ねて来れるのが北東京の特徴の一つです。また、韓国留学に10名行っていますので、長期休みの帰国時に、留学生と共に接する機会を通じ、多くの恩恵を交換できます。

 

②環境

 

 日曜礼拝は、午前、午後、夕拝の三回に分けて行っています、この取り組みは多くの学生が礼拝に参加するためです、一人で参加する学生、親子で参加する学生、部活を終えて参加する学生、そんな学生の事情に応えていける拠点(環境)があることに感謝です。

 

③教会全体共有

 

 特記する内容として礼拝時に牧会者の計らいで学生会メンバーが一般礼拝(大人礼拝)で、自分の体験したことをもとに、説教する機会が毎週与えられていることです。学生たちの受けた恩恵を本人から毎週受けることにより同じ心情圏を共有することができます。

 

 同じく小学生の礼拝にも説教をしに行きます。

 

■最後に

 

 十数年前に高校生だった二世が母親となり、小学生礼拝に参加している姿を通じ感じることは、“安着が伝統を生み、伝統が故郷をつくる”そんな心情を実感しています。15期学生会長の言葉で北東京教区の紹介を締めくくります。「今までの伝統を相続しつつ、“来たくなる教会学校づくり”を目指し、多くの兄弟姉妹と共に為に生きる喜びを知りながら神様の息子、娘として誇りを持って歩んでいきます。」

原理講論を読もう♪⑮

 

蛇の誘惑と善と悪DOC110525-002

 前回では“善悪を知る木の果”を食べるとはどういう意味を持つのかということについて考えてみました。善悪を知る木とは“創造理想を完成したエバ”を意味し、その木の果は“エバの愛”を意味するので、“善悪を知る木の果を食べる”ということは“純潔を守ることができなかった”という意味を比喩で表現しているということがわかりました。今回は“純潔”を守ることができなかった人間始祖の堕落行為とはどのようにして起こったのか、考えてみようと思います。

 聖書を見ると人間の堕落行為は蛇の誘惑から始まっていることがわかります。蛇は巧妙な問いかけでエバの気持ちを揺さぶり続け、最後には神の戒めをエバ自ら破らせて堕落へと導きます。エバを誘惑したこの蛇こそ“サタン”と呼ばれている悪の根本的な存在だということがわかると思います。それではこの“サタン”はエデンの園に最初から存在したのでしょうか。もしも悪なる“サタン”が最初から存在していたのであれば、悪は元々在ってしかるべきものだということになります。つまりどんなに神様の復帰摂理が完成されたとしても、悪は依然として残るという結論になるのです。そうなると神様お一人による創造ではなくなるので、もう一人の創造主がいるということになってしまいます。そのため、蛇に比喩された存在は創造されたときから悪なる存在だったわけではなく、善なる存在として創造されたにもかかわらず、何かのきっかけにより後天的に悪なる存在に変わったのだといえます。

 蛇の話をするからという訳ではありませんが、蛇足として少しだけ付け足すと、善と悪は決して二性性相の間柄ではありません。右があれば左が、高いものがあれば低いものがあるように二性性相とは切っても切れない陽性と陰性の関係です。しかし善があるから悪が存在するわけではありません。上でも話しましたが、絶対的善の主体である神様が創造した当初は“悪”は存在しませんでした。(善だけだったので、もしかしたら“善”という概念すらなかったかもしれません)しかし堕落行為によって“悪”がこの世界に誕生したため、相反する意味を表現するために“善と悪”という言葉が生まれたのです。二性性相に照らし合わせて、善があれば悪が存在するしかないと考えてしまうかもしれませんが、“善”と“悪”は陽陰の二性性相ではないということを知っておいてください。

蛇の正体

 さて、聖書の中では“蛇(悪魔)”の正体についていくつかのヒントを与えてくれています。①人と話すことができる②神様に与えられた戒めを知っている③人類に対して時空を超越して心霊を支配できる(時空を超越するというのは、“時と場所に関係なく”という意味です)こうした点を総合して考えたとき、“蛇”とは霊的な存在だと確信することができます。それでは神様と人間以外でエデンの園に存在した霊的存在とは一体誰だったでしょうか。それは“天使”しかいませんでした。聖書の中には天使が罪を犯したことに関する聖句がいくつか見られますので紹介しようと思います。

 主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。ソドム、ゴモラも、周りの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。(ユダの手紙 1・6-7)

 黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった(イザヤ書 4・12)

 “明けの明星”とは天使長ルーシェルの名前の意味を指した言葉ですので、こうした聖句を総合して考えてみると天使長ルーシェルがエバを誘惑して純潔を奪う罪を犯したのだということがわかります。しかし天使の中でも最も位が高い天使長ルーシェルはなぜ神様の戒めを犯してしまったのでしょうか。

 天使は神様の創造において初めに創られた被造物でした。天使は神様の創造を助ける僕として、神の創造を称える賛美者としての創造目的を与えられていました。創世記1章26節では神様が人間を創るとき「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」と記されています。この“われわれ”というのは神様と天使を考慮して言われたものです。しかしここで皆さんにはっきりと知っておいていただきたいのは、天使は人間より先に創造されていますし、神様の近くにいるので人間よりも崇高な、尊い存在だというイメージを抱きやすいのですが、天使は決して人間より尊い存在ではありません。天使はあくまでも万物に属しますので、本来は人間が主管しなければいけない対象です。本来はアダムとエバが天使長ルーシェルの言動をしっかりと主管しなければいけない立場でした。しかし結果的にアダムとエバは自分たちが主管しなければいけない天使に誘惑されて、最も守らなければいけない“純潔”を失うことになります。次号では堕落行為が起きた経緯について詳しく考えてみようと思います。

がんばれ 東北の二世たち

3月11日の悲劇

 

 今回の震災で大きな被害に遭われた祝福家庭、そして二世の皆さんへ、心からお見舞いを申し上げます。

 

 震災から3ヶ月近くが経とうとしていますが、被災地の現状はまだまだ日常を取り戻すところまでいっていない様子を見つつ、本当に心が引き裂かれるようです。

 

 東北から離れた地域である私たちでも大きなショックを受けたのに、被災地の二世たちはどれくらい大きな恐怖と不安と絶望を感じたであろうかと思うと、かける言葉が見当たりません。東北の二世たち、大丈夫ですか?

 

 私は3月17日、震災の6日後に千葉中央修練所で、福島の二世たちに会いました。中高生が70人あまり、小学生が50人くらいでしょうか。原発の関係で避難してきたメンバーたちでした。その後、「避難生活だけではなく、修練会を企画してほしい」ということで短期間でしたが、修練会を一緒にやらせていただきました。着の身着のままで来ている姿を見ると、どんな言葉をかけたらよいのかわからず、涙が出ました。「地震のその時どこにいたのか?」と聞くと、半分が家、1/3が学校、その他という感じでした。中にはゲームセンターという子もいました。ちょうど金曜日の2時すぎですから、学校にいたメンバーも多かったですね。その時、まさか、死者行方不明者合わせて2万5千人を超える惨事になるとは思いもよりませんでした。翌日の新聞、テレビの報道を見たとき、この世のものとは思えないくらいの惨状に、思わず“神様、どうしてですか?”と心の中で叫びました。津波で町が、村が、人が、車が、家が、すべて流されていってしまう様子。これは現実か?と目を疑いました。そして原発です。目に見えない放射能というものとの闘い。いまだに収束の見通しが立たないし、福島原発の近くの村人は故郷を失くしてしまいました。

 

神様の心情

 

 あれから3ヶ月経ちました。私は、今回のこの震災を通して、明らかに自分の中で大きく変わったことがあります。今まであって当たり前と思ってきたものが、実はそうではなかったということを身に沁みて感じました。

 

 家、学校、食料、水、電気、ガソリン、空気、そして“命”・・・これらは、人間の英知によって作り出され守られてきていたのだということ、そして自然は決して人間にとって優しいだけのものではないのだということ。

 

 神様はどうされたのでしょうか?その瞬間、神様は多くの命が飲み込まれていくのをごらんになりながら、どう思われたのでしょうか?皆さんは、そういうことを考えてみましたか。私は一瞬「神様、どうしてですか?」と神様に疑問を感じた人間でした。「この日本を見捨てるおつもりですか?」と。しかし、そのように思うこと事態、私は何もわかっていなかったんだと亨進様のみ言によって思わされました。

 

 3月20日、宮崎台研修センターを訪ねられた亨進様は、以下のように語られたのです。「わたしたちが生きているのは、生きるに値する人間だからではありません。私たちは神様からの贈り物として命を受け取ったのです。」

 

 私たちに与えられたすべてのものは、一方的な神様からの恩寵だというのです。私は、間違っていました。恩寵であるならば、自分で手に入れたいと思って手に入れることができたのではなかったのです。水も、空気も、命も・・・逆に言えば、手に入らなかったからといって文句を言うべき立場でもないということです。傲慢だったなあと思いました。

 

 このようにも考えました。自然災害が起こることを神様はご存知であられたかもしれません。そしてそれをどうすることもできない中、最も胸を締め付けられてこられたのが親なる神様であったでしょう。家族の引き裂かれる苦痛は、誰よりもご存知であられる神様であるはずです。天の心情は思い図ることもできませんが、自分のことで精一杯になっていると、神様の心情を蹂躙してしまう言葉を投げかける私になってしまいかねないのですね。

 

感謝するということ

 

 このことから私たちは何を学ぶべきでしょうか?“感謝すること”。一言で言えば、そうではないかと思います。生きていることに感謝、食べていけることに感謝、学校に通えることに感謝・・・・・そこに“感謝”することができるところから、“前に進もう”と踏み出すことに繋がるのではないかと思います。

 

 東北の二世の皆さん、難しいけれど、そう思えるような日が来たら、東北から、すばらしい天の息子、娘たちが出てきて、天を感動させることができると思います。全国の二世たちが応援しています!!がんばれ、東北の二世たち!!