3月11日の悲劇
今回の震災で大きな被害に遭われた祝福家庭、そして二世の皆さんへ、心からお見舞いを申し上げます。
震災から3ヶ月近くが経とうとしていますが、被災地の現状はまだまだ日常を取り戻すところまでいっていない様子を見つつ、本当に心が引き裂かれるようです。
東北から離れた地域である私たちでも大きなショックを受けたのに、被災地の二世たちはどれくらい大きな恐怖と不安と絶望を感じたであろうかと思うと、かける言葉が見当たりません。東北の二世たち、大丈夫ですか?
私は3月17日、震災の6日後に千葉中央修練所で、福島の二世たちに会いました。中高生が70人あまり、小学生が50人くらいでしょうか。原発の関係で避難してきたメンバーたちでした。その後、「避難生活だけではなく、修練会を企画してほしい」ということで短期間でしたが、修練会を一緒にやらせていただきました。着の身着のままで来ている姿を見ると、どんな言葉をかけたらよいのかわからず、涙が出ました。「地震のその時どこにいたのか?」と聞くと、半分が家、1/3が学校、その他という感じでした。中にはゲームセンターという子もいました。ちょうど金曜日の2時すぎですから、学校にいたメンバーも多かったですね。その時、まさか、死者行方不明者合わせて2万5千人を超える惨事になるとは思いもよりませんでした。翌日の新聞、テレビの報道を見たとき、この世のものとは思えないくらいの惨状に、思わず“神様、どうしてですか?”と心の中で叫びました。津波で町が、村が、人が、車が、家が、すべて流されていってしまう様子。これは現実か?と目を疑いました。そして原発です。目に見えない放射能というものとの闘い。いまだに収束の見通しが立たないし、福島原発の近くの村人は故郷を失くしてしまいました。
神様の心情
あれから3ヶ月経ちました。私は、今回のこの震災を通して、明らかに自分の中で大きく変わったことがあります。今まであって当たり前と思ってきたものが、実はそうではなかったということを身に沁みて感じました。
家、学校、食料、水、電気、ガソリン、空気、そして“命”・・・これらは、人間の英知によって作り出され守られてきていたのだということ、そして自然は決して人間にとって優しいだけのものではないのだということ。
神様はどうされたのでしょうか?その瞬間、神様は多くの命が飲み込まれていくのをごらんになりながら、どう思われたのでしょうか?皆さんは、そういうことを考えてみましたか。私は一瞬「神様、どうしてですか?」と神様に疑問を感じた人間でした。「この日本を見捨てるおつもりですか?」と。しかし、そのように思うこと事態、私は何もわかっていなかったんだと亨進様のみ言によって思わされました。
3月20日、宮崎台研修センターを訪ねられた亨進様は、以下のように語られたのです。「わたしたちが生きているのは、生きるに値する人間だからではありません。私たちは神様からの贈り物として命を受け取ったのです。」
私たちに与えられたすべてのものは、一方的な神様からの恩寵だというのです。私は、間違っていました。恩寵であるならば、自分で手に入れたいと思って手に入れることができたのではなかったのです。水も、空気も、命も・・・逆に言えば、手に入らなかったからといって文句を言うべき立場でもないということです。傲慢だったなあと思いました。
このようにも考えました。自然災害が起こることを神様はご存知であられたかもしれません。そしてそれをどうすることもできない中、最も胸を締め付けられてこられたのが親なる神様であったでしょう。家族の引き裂かれる苦痛は、誰よりもご存知であられる神様であるはずです。天の心情は思い図ることもできませんが、自分のことで精一杯になっていると、神様の心情を蹂躙してしまう言葉を投げかける私になってしまいかねないのですね。
感謝するということ
このことから私たちは何を学ぶべきでしょうか?“感謝すること”。一言で言えば、そうではないかと思います。生きていることに感謝、食べていけることに感謝、学校に通えることに感謝・・・・・そこに“感謝”することができるところから、“前に進もう”と踏み出すことに繋がるのではないかと思います。
東北の二世の皆さん、難しいけれど、そう思えるような日が来たら、東北から、すばらしい天の息子、娘たちが出てきて、天を感動させることができると思います。全国の二世たちが応援しています!!がんばれ、東北の二世たち!!