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Archive for 5月, 2011

神様との連結

一時の満足と孤立%25C5%25A9%25B1%25E2%25BA%25AF%25C8%25AF_870W0523

 世の中が自分を中心として回っていると信じ、自分だけを中心とした生活をすれば、失望ばかりを味わうだけです。世界に対抗して闘うのが“私”ならば、私はいつでも犠牲者になり、闘いに敗れるでしょう。私は、私以外の者たちより、明らかに数的に不利です。もし自分を他の人から区分し分離主義者になれば、自分を保護するために、私は斬進的に、しかしはっきりと自らを孤立させるようになります。内面の深い所から、外にいる彼らに負けるということを知っているので、自分と利己的自我を守るために、より多くの壁と、防御と保護のバリアーを張らなければならないからです。

 そうなれば、ほかの人たちが自分よりも偉大で、もっと大きく、もっと豊かに見え、彼らがもっているものに対して貪欲さを感じるようになります。彼らが持っているものを奪いたいと思い、そのあとに初めて心の安定を得て喜びを感じます。しかし、もっと豊かだったり、もっと成功したり、自分より幸福に見える別の人たちを見れば、また嫉妬し、怒り憎しみを育てます。“どうして彼らがそのように幸福になれるのか。私がこのように苦労し、熾烈な人生を生きているこの世の中で、彼らは、あまりにも簡単に生きているではないか”と言います。私は、もっとたくさんのものを願い、それでしばらくの間は豊かになり、すぐに消えてしまう喜びを享受することもできます。しかし、それは、ただ人々に見せる自尊心と優越感にすぎません。少しの喜びはすぐに消え、私は、不幸な心で一人残り、再び自分がもっているものを人のものと比較して、現在の状況に対して世の中を恨むのです。

世界と私の連結

 世の中から自分を分離することはできません。私は、すべてのものと連結しているのです。父母が生んでくれたので、私がここにいるのです。父母が一緒にいなければ、私という存在はあり得ません。太陽と月、風、雨、地を掘り起こす農夫、排泄物で地を肥やす動物などによって栄養分を供給され、成長してきました。私が生まれるまでになければならなかった数多くのものを考えてみれば、それは本当に奇跡のようなことです。生きていること自体が奇跡です。歩くことができるということも奇跡です。考えてみれば、私の存在自体が一つの奇跡なのです。

 いかなるものも私たちと分離することはできません。私たちは、過去の生きていたすべての先祖たちによる産物であり、同時に、これからの子孫たちに伝える伝統をもっています。過去と未来が私たちと離れているのではなく、今この瞬間、ここに共にあるのです。死後に私たちの肉身は土に帰り、生息する動物たちの栄養分になります。私たちの人生と自然の世界、太陽、月、宇宙などの生命は、すべて同じ一人の方から与えられたものです。

神様による保護

 私たちは、被造物の一部であり、全ての被造物もやはり私たちの一部です。私たちがそうであるように、ほかのすべての存在も、やはり神様から創造されたからです。私たちが自己中心的で、分離主義的な行動をとるとすれば、自らを分離させて孤独な人になり、絶えることのない葛藤と緊張の人生を生きるようになります。しかし、自分が神様と被造世界、すなわちすべての人間と万物とどれほど深くかかわり合っているかということを悟るようになれば、踏みつけられていた心は平安になり、その広大な関係の中で私たちは自由になります。

 神様、万物と共に一帯を成して生き続けていくようになれば、小さく制限され、世の中から完全に分離されていると感じていた、自我に対する間違った認識から抜け出すことができます。そうすれば、すべての人たち、そして被造物と親密さを感じるようになります。太陽の光と雨、植物、動物に到るまで、すべての自然から受けていないものはないという事実を知るようになるのです。私たちを守ってくれ、保護してくれる多くのものと、思いやりのある人たちによって養育されてきたことを知るようになります。神様の下の一つの家族としての人間愛を感じることができ、父母にとっての子供の存在のように、私たちがとても重要な価値を持っていることを知るようになるのです。

【天和堂p81より抜粋編集】

学生生活

衣食住生活1

 私は中学生の時、ソウルに来て学校に通いました。先生は故郷を18歳の時から去って、今まで故郷を忘れてサタン世界を収拾するために、人生を懸けてきたのです。

 学生時代に自炊生活をしました。七年間一人で自炊生活をしました。ソウルはこの頃は天気が良いけれど、当時は零下21度、平均零下15度で、寒い時でした。その時は、井戸で水をくむとき、鉄のつるべで水をくむとひもがよく切れたのです。冷たい部屋で生活するのです。中学校、高等学校時代は冷たい部屋で寝ました。

 その時には、布団の布袋を冷たい部屋に敷いて寝て、朝にパッと起きてみると、ペタッとそのまま跡が刻まれているのです。これが一週間過ぎても消えないのです。模様がついている跡なのです。ですから、火を炊かないで生活する若い青年は悲惨だ、と考えるかもしれません。寒いから仕方なく電気のコードを使ったのですが、今見ればあちこち傷があるのです。

 先生は中学校時代に昼食を食べませんでした。お金がないから食べないのではなく、お腹がすいた人の事情を知るためでした。また、ご飯がないからそうしたのではありません。修行するものたちは、人生を通じて、平常時に修行しておかなければならないと思って…。その時は、何があっても食べることが楽しみだったのです。ただ、食べてもまた食べたいときです。そんな時に昼食を食べなかったのですから、昼食のとき、ご飯を慕う心は複雑なのです。友人たちは弁当を持ってきて食べているのに、私は遠いところに一人座って、ご飯も食べないで瞑想するその場は深刻な場だというのです。

 先生は、先生自身に対しては本当にケチなのです。私は30歳までは、学生時代にも新しい洋服を買って着たことがありません。古物商に行って古着を買って着ました。服は全部学生服ですが、継を当てて着ました。古物商、ソウルの交叉点にある古物商に行って、学生たちが来てもっていかないもの、皆襟に垢がついていたもの、油あかが付いたもの、臭いがするものをわざと選ぶのです。髪はできるだけこうして、顔も洗わないで、なるべく髭もそらないで、なぜ?どこに行ったとしても何でもできるのです。そして、その残ったものでかわいそうな人を助けてあげた人です。あるいは愛国者の家族に、夫が恥辱をうけるなど困難があれば、名もなく助けてあげた人です。そんな生活をしてきたのです。

お金を惜しんで歩き回られる

 学生のとき、先生は電車に乗って通うことができませんでした。絶対に乗らないで通ったのです。そのころ、電車料金が5銭でした。それでも必ず歩いて通いました。そうして往復10銭を集めて、道ばたで施しを願う人々にあげました。

 私が学生のとき、黒石洞からソウル駅まで歩いて通ったことが思い出されます。夏に友人たちはみなどこに行くにしても電車に乗って通ったのですが、私は歩いて通いました。「私が行く道は違う。お前はこの道を行ってはだめだ。」と考えたのです。駅前に行けば、施しを求める彼らの前に両手でお金をあげながら「私が今あげるものは少ないけれど、このお金が千万倍に増えて、乞食のようなこの民族が解放の一日を迎えることができるようにしてください。」と祈祷したことが思い出されるのです。呻吟と塗炭の中に包まれている哀れな民族の事情を知り、その民族の受難の歴史に血と汗を流した自分の一族を知り、自分の一家を知り、自分の父母を知らなければなりません。

 私が日本に行くとき、ソウル駅から下関まで、オーバーを被って慟哭をして行ったのが何時間だったか。今も忘れられません。そのとき、韓国人たちは全部日本に行く人たちですが、彼らには父母がいます。しかし私は「神様!み旨の中であなたが行くことのできる、力を振り絞っていくことのできる礎を置くために、愛の情熱に燃える心情が溶け出ていって、流れる涙の跡を通さなければならないということを私が分かりましたので、そのような道を行かせてください。」という祈祷をしたのです。

 高いところから訪ねて行かなかったというのです。貧民窟から、人間の末端のところからたどって訪ねていきました。その世界の生活苦に喘ぐ人間像を知って…どんな分野でも全部経験しました。労働もしてみて、農業もしてみて、船乗りもしてみて、してみなかったものがありません。

 私の人生の千秋の恨とあなたの哀れなすべてのものをこの息子が受けて…6000年歴史の中であなたの心情に何らかの恨が残っているならば、この息子一人を打っておいて、千万代打っておいて解くことのできるその心を持ってくださいと言いながら、そんな道を探してきたのです。

【二世の道p234より抜粋】

信仰と愛

絶対信仰・絶対愛・絶対服従20110917海洋天正宮ホテル奉献式

 私たちは自らの信仰の水準に従って、神様の愛を感じることができるようになるのです。神様が私たちに数千回、見せてくださり、語ってくださり、贈り物をくださっているのに、そのたびに、私たちがその方を信じなければ、その愛を感じることができません。

 実は、真の父母様が、私たちに秘密のシステムをくださいました。絶対信仰・絶対愛・絶対服従です!これは単純な三種類の原則ではありません。絶対信仰によって私たちは愛を見つけることができます。信仰によって愛を見つけて、愛によって私たちは服従することができるのです。

 罪とは何ですか?神様に傷や痛みを与えることです。私たちは、“神様はいつも私たちのそばにいらっしゃる”と言いながらも一日に90%以上、神様を無視しながら暮らします。例えば、私の奥さんがすぐ横にいるのに、私がずっと奥さんを無視すれば、奥さんは気持ちがいいでしょうか?心の傷になります。私たちも、常に神様が横にいらっしゃるのに神様を忘れます。神様を無視します。それが罪です。ですから、私たちは悔い改めることが必要だというのです。ところが、このシステムによって信仰があれば神様の愛を感じることができ、愛があれば、神様の前に服従することができます。

 神様の恩寵、神様の愛、真の父母様の蕩減とその愛のため、私たちが神様の前へと出ていくことができるのです。それが真の親の愛です。これを悟るようになれば、“なぜ、私たちが神様のみ言と法に従わなければならないか”を悟ることができます。それは何か大きな補償を受けるためですか?そうではありません。賞を授かるため、天国に入るため、こういったことのためではないのです。ですから、絶対信仰!私たちの信仰の水準を通して神様の愛を感じて、神様を愛するようになれば、私たちは喜んで幸せに従うことができるのです。

神様の創造目的

 神様の創造目的は何でしたか?神様の目的は原理的な観点で、神様の真の愛の真の対象です。真の愛の授受作用ができ、神様の本質を授受作用できる対象です。それを簡単に解いていけば、アダムとエバがそうならなければなりませんでした。イエス様がならなければなりませんでしたが、早い話が真の父母様なのです。

 神様の創造目的は、真の父母様です。全宇宙が始まったことが、その真の父母を探してその存在と関係を結んで真の家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙をつくるためでした。それが創造目的です。それが分かるようになれば、この全宇宙を創造される時、神様の初めの瞬間の出発点が、真の対象を愛で追い求めたエネルギーだったことが分かるようになります。全宇宙がその部分から始まったというのです。

 ですから、この振動、私たちの愛の振動が重要なのです。これは私たちが自分自身を愛する振動ではありません。真の愛、神様が与えてくださった愛、父母様が私たちのためにくださった愛、それは与えても与えても与えても、また与えてくださる愛です。私たちはその愛のため、その恩寵のため、神様の前へ行くことができるようになるのです。

 私たちはもう一度、神様がなぜ宇宙を創造されたのかに帰らなければなりません。もう一度、神様にとって何が最も重要であるのかに帰らなければなりません。これが重要なことです。私たちにとって重要なものは重要ではありません。

 お父様がこのようなみ言を語られました。「神様が、宇宙か真の父母様のどちからかを捨てなければならなければ、どちらを選ばれるか?」どちらですか?「宇宙を捨てることを選ばれる」と言われました。それほどに真の父母様が神様の核心なのです。

 神様と真の父母様をもっと愛さなければなりません。そうすることで、私たちも変化します。神様と父母様が私たちを通して働くことができます。私たちがもっと深刻に創造目的に帰り、父母様を愛さなければなりません。私たちが最後まで父母様にすべてのエネルギーを送るなら、その愛だけが神様を感動させることができ、その愛によって、神様が罪人である私たちに再びこの世界を眺められるようにしてくださることを信じます。

【天一国食口礼拝 2011年3月20日】

信仰生活

心が沈んでしまうとき2222

 皆さんが信仰の道を行きながらも心が沈むのは、内的な基準が下がるからです。この内的基準が下がった状態では、何をやっても満足な結果をもたらすことはできません。ですから、内的な神様の臨在点に同化する生活、一致する生活にならなければなりません。そのような観念をどのように確保するかということを考えなければなりません。

 皆さんは、自分が祈祷をしたり、精誠を尽くしたら、何ともいえない力が湧いてくるのを感じることでしょう。皆さんを超越する力が、皆さんに訪れてくるのです。それが自分の心に来てつながるのを感じるようになるのです。

困難に対する理解

 大きなことをするには、1/3は反対するのが原則です。「さあ、行こう!」と言って皆が「はい」と応じたら、何の功労になるでしょうか?反対され、胸を痛め、涙を流し、そうして峠を越えてこそ「よくやった」と言えるのであって、楽に超えたらよい気持ちがしますか?お腹がいっぱいなところへおいしいものを与えたらどうですか?「ああ、おいしい」と言うでしょうか?お腹が空いている時なら、ただの麦ご飯でもガツガツ食べながら「ああ、おいしい」と言うでしょう。そういうものなのです。

 皆さんの中にも、ある時自分も知らないうちに悲しみが込み上げてきて、わけもなく涙が滝のように流れる経験をした人がいるかも知れません。私たちはその悲しみの正体を知らなければなりません。その悲しみは自分の悲しみではありません。それは追求してみると歴史的な悲しみです。その悲しみはだれが持ってきたのかというと、神様が持ってきたものなのです。では、それはだれゆえの悲しみなのかというと、神様ではなく私たちなのです。結局は私たちを救うための悲しみなのです。それは私一人の救いではなく、国と世界の救いのためです。国がなければ私たち自身は救いを受けることができません。皆さんはそれを知らなければなりません。

困難を克服する方法

 心配事と災難が訪れたからといって、気を落としてはいけません。迫害されたからといって心配してはいけません。その代わりに、自分が定義の位置から未来を受け継げるように、天運の前に世界的な運勢基盤の上で天運を受け継ごうと、自分自身を準備しなければなりません。そのことを自らはっきり知るようになれば、それ以上必要ありません。

 私たちが“環境に勝ち進もう”というとき、この言葉の中に私たちはいつも危険にさらされているという意味も入っています。いつでも危険が待ち構えているのです。

 高い山があれば、必ず谷があるのと同じく、試練があれば必ずその試練に見合った福が訪ねてくるのです。神様が、善が訪ねてくるのです。冬が過ぎれば、冬の峠を越えれば春はやって来るのです。同じなのです。その次には夏が来ます。谷は夏と同じです。それが発展の表れだということを知らなければなりません。

 困難なことにぶつかるときに皆さんが知らなければならないのは、これから訪ねてくる福を受けることのできる準備、天の福を受けて人類に譲り渡すことのできる自分のすべての準備をしなければならないことです。器を用意しなければならないのです。福を受け止めることのできる器を作らなければなりません。

困難に対する先生の姿

 先生は北韓共産党の監獄に入って2年8か月の間、重労働をしました。何の労働だったかというと、肥料工場での仕事でした。硫酸アンモニア工場から粉がコンベアーに積まれて工場のある一か所に落とされるのですが、それをはかりで量ってかますにぎっしり入れて貨車に積み込む仕事です。

<<中略>>

 先生はそういう中で人間の深いところまで研究しました。食べ物を慕うほどに、自分が神様を慕っているだろうか?先生は日々比較し、照らし合わせながら過ごしてきました。「何より神様を愛さなければならない。このご飯一食を食べるためにここへ来たのではない。万人の蕩減の道を開拓するために来たのだ」と考えました。自分の行動に対し、不信するような態度は絶対取りませんでした。

 皆さんにいくら悔しく無念なことがあっても、先生の悔しく無念な思いには及びません。また、レバレンド・ムーンがいくら悔しく悲痛だとしても、神様の悔しく悲痛な思いには及びません。だから耐えるのです。そこで心情的な絆が結ばれるのです。悲しみの裏側に神様の心情的歴史の道が広がることを知らなければなりません。

【二世の道p234より抜粋】

精誠の力

精誠の振動のパワー写真3

 私たちは父母様に侍りながら、本当に多くの肉身の挑戦を経験するようになります。皆さんもご存知のように、お父様はすべての霊肉の限界を超越され、24時間が忙しく、ほとんどお眠りにもなられません。私たちも肉体的に、精神的に疲れてしまう状況も起こります。多くのストレスが生じたり、絶望を感じたりする瞬間もたくさんあります。

 しかし、私が一度そのような状況に陥った時、早朝の修行時間に部屋で静かに“真の父母様億万歳”の音楽を聴きながら、精誠を尽くそうと思いました。ところが、本当に不思議なことに、その振動が全身にしみ込んで広がっていくことを感じました。その一つの振動がどんどん広がって私の体が治療される感じ、私の心が治療される感じ、心に平和の花が咲くような感じを受けました。また、私が感じていた絶望、私が追い求めようとした称賛、私がどれだけ大変だったかという思いから抜け出して、真の父母様を愛する神様の真の愛にまた入っていこうと努力をすると、私の心にもまた平和が訪れるという役事を経験しながら悔い改めることができ、再び感謝を感じることができました。本当にこの振動のパワーがどれだけ恐ろしいものか、もう一度感じるようになりました。

アルプスを登られたお父様

 ジュネーブ大会が終わって、私たちはアルプスのインターランケンに行きました。お父様がアルプスを登られることになったのですが、そこはゴンドラに4回くらい乗って上がらなければなりませんでした。そして、最後の頂上には4段階の小さな丘がありました。皆さんもご存知のように、お父様は遠くに移動される場合は車椅子に乗られます。しかし、その日は本当に特別な状況が起こりました。お父様がその丘を一人で歩いて登られるとおっしゃったのです。私たちは皆、お父様を止めました。とても遠いし、無理をされて足に負担がかかると言いましたが、お父様は「行こう!行こう!」と言われながら挑戦をされました。93歳になられるお父様が挑戦されたのです。その山を一歩、一歩、とても深く呼吸されながら登られるお姿を見ながら、私たちは皆、称賛して拍手しながら、「ああ、私たちのお父様。すばらしい!」と叫び、その山の一段階、一段階を登られるお姿にすべてのメンバーがどれだけ喜んだか分かりません。本当に大きな感動を受けました。

 本当に幸せな心で、またお父様を誇らしく思う心で山に登って、また降りていく時、私がお父様にこのような言葉を申し上げました。「ああ、お父様!すごいです!お父様、その小さな愛の精誠がどれだけ恐ろしいか、はが感じます。ある研究を見たのですが、ある一人のために祈祷をたくさんすれば、その人がもっと健康になるというのです。天福宮で数千人の食口たち、若い二世や成和学生たちから歳を取られた36家庭までが集まって、皆で『真の父母様億万歳』の讃揚の精誠を尽くして、この世界で誰よりも真の父母様のために精誠を尽くそうという心で祈っています。特別に今日その振動のパワーがお父様の脚に来たようです。」すると、お父様がとても喜ばれて、「そうだ!そうだ!」とおっしゃってくださいました。

真の父母様を愛する心

 皆さん!本当に私たちは、私たち自身が治療を受けるため、私たちがもっと福を受けるために振動を集めるのではなく、父母様がもっと幸せで、もっと力をだせるようにするなら、神様と聖霊の役事が充満すると信じます。そして私たちは本当に天福を受けるようになるでしょう。その天福を成熟した心で、神様の栄光、キリストの栄光の中で、真の父母様を愛そうと思う心で振動と精誠を集めたがゆえに、神様が私たちをもっと信じることができるでしょう。また、私たちに祝福を与えてくださっても私たちがその祝福を世の中の統一家のために使うことを知っていらっしゃるので、より驚くべき天福の人生を許してくださるようになると信じます。

 きれいな心、きれいな動機、きれいな心情でキリストの霊、神様の霊、その真の愛の心情、真の父母様を愛する孝の心情に再び入っていって、大きな振動と宇宙を揺さぶるそのパワーを集めて父母様にお送りすることを願います。皆さんと共に精誠と栄光を真の父母様にお返ししましょう。

【天一国食口礼拝2011年5月22日】

人生の目的

本然の目的1_7

 先生は全生涯を捧げて修道の道を歩んできた人です。さらに、宇宙の根本と神様の実存という問題を巡って誰よりも悩んだ人です。

 血と涙のにじむ修道の過程を通して、先生は生きた神様の実存をはっきりと知りました。生きた神様と直接対面する体験までするに至りました。そして、宇宙の根本である神様との平和を得ずして、この地球上で真の平和を論ずることはできないと悟ったのです。

 神様は宇宙の第一原因であり、森羅万象の創造主です。そして私たちの愛する父です。神様は特別なみ旨を成すために万物を創造され、その目的はまさしく愛の具現にあります。神様は真の愛の根源ですが、いくら全能の神様でも、一人では決して愛の喜びを感じることはできません。神様は愛の対象が必要であり、その対象から自発的な愛が帰ってくることを願いました。その対象として最高の被造物がまさに人間です。そのような理由で、人間の人生には目的があるのです。人生の目的は成熟して神様と永遠に真の愛の関係を実現することにあります。まさにこれが神様と人間の間に平和を成す根本原理なのです。

 私たち個人はもちろん、地上に生きている数多くの人間たちの中に善を望まない人はいないことを私たちはよく知っています。これまで歴史の方向も善を志向してきましたし、教育者や信仰者たちも善の基準を立てるために努力して闘ってきたことをよく知っています。ですから、生まれるのも善のために生まれ、死ぬのも善のために死ななくてはならないのが人生の目的です。人生の目的のみならず、人間が歩んできた歴史の目的であることを私たちは否定することができないのです。

 自分たちが豊かに暮らすことも大切ですし、自分たちが何かをすることも大切ですが、それより先縦的な真の父母の前に孝の道理を尽くさなければならないのです。縦的な天の父母の前に忠の道理を尽くさなければならないのです。縦的な天の父母の前に聖人以上の道理を尽くさなければならないのです。それが、人間が生まれた本来の目的です。また、そのような人間と出会うために、神様は人間をつくったのです。そういう目的があるのです。

 真の人生を生きる道はどこにありますか?人間はどこから生まれましたか?愛から生まれましたが、人生はどんな道を行かなければなりませんか?愛の道を行かなければなりませんが、どのように死ななければなりませんか?愛のために死ななければならないという結論になります。その愛はどんな愛ですか?大宇宙が歓迎できる愛です。神様が認め、天使世界が認め、万物が認め、全ての人が認め、父母が認めることのできる大宇宙の中で生まれ、その中で生き、その中で愛し、その中で死んでいくことが人生の目的だと見るのです。

人生最高の目的

 人間は何を目的にしなければなりませんか?個人を目的とするよりも、家庭を目的とするよりも、団体を目的とするよりも、国を目的とするよりも、世界を目的とするよりも、天地を目的とするよりも、神様を中心として、神様と人間が一つになった目的に向かって進まなければならないのです。

 では、どの目的が最後に残るでしょうか?個人を中心とするものは流れていき、家庭を中心とするものも流れていき、自分の団体を中心とするものも流れていき、国を中心とするものも流れていき、世界を中心とするものも流れていくのです。しかし、最後まで残れる一つの目的があるとすれば、それは神様と人が合同で追求する目的です。そのような目的だけが人類歴史の最後まで残ることができるのです。

 皆さんの心が最後に落ち着く終着点はどこですか?神様を見つけて自分のものにしたとしても、そこに皆さんの心は安息しようとはしません。では、皆さんの心の最後の終着点はどこですか?神様を占領し、神様の愛を占領するところです。ですから、皆さんが神様の愛を占領できなければ、万事がだめになります。

 人生の最後の目的は何でしょうか?ここでは神様を中心として天の中心となるその方出会うことが問題なのではありません。その方とともに生活することが問題になります。

 その方とどんなところで出会うか、どんなところで生活するかというのが問題です。その方とは中心で出会い、中心で生活するというわけですが、その中心となる場というのは神様の愛の場です。

 ですから、人類の良心が志向する最高の目標は、天運に従って神様と一つになり、神様の愛を自分のものにすることです。結論はそれです。

 人間が最後に到達したいと願うのは何でしょうか?最高の方の愛の相対者となることです。この最高の方がだれかといえば、私たちの父であると同時に神様なのです。

【二世の道p212より抜粋】

祈祷

み名があがめられますように亨進様祈祷写真加工済み

 マタイによる福音書の第六章を思い起こしてみましょう。そこでイエス様は弟子たちに「どのように祈るのか」ということをお教えくださいました。

 イエス様は、宗教者のように見せかける偽善者であってはならないと言われ、多くの人々の前で、大通りで、大きな声で、長い長いお祈りをする、そういうお祈りの仕方はいけないとおっしゃいました。

 小さな部屋に入り、戸を閉めて、自分の父親に語りかけるように祈るべきであるというのです。“孝”ということです。親子の関係です。父子の関係の中で祈りが出てくるのです。そしてこのように祈りなさいと言われました。「天にいますわれらの父よ、み名があがめられますように」

 神様のみ名を皆さんの胸の中に、何よりも先にとどめておくべきだという話です。もともと人々が祈るときには、個人祈祷です。しかしイエス様は、どんなときも、まず初めに神様を賛美せよと言われます。神様の偉大さを証し、神様の全能を賛美し、神様の聖なる名前を唱えよと。普通とは逆なのです。

 皆さんが祈祷生活をしながら、なぜ神様は私の祈りを聞き届けられないのか、このような疑問を持つとすれば、では自分はどのようにお祈りしているのかと問い直すべきです。祈祷するたびごとに、口を開くときごとに、個人の祈祷から始めるのか、自分の国のことを祈るのか、それとも神様の賛美から始めるのか―。

まず神のために祈る

 もともと私たちがお祈りするときによく出てくるのは、私の願い、私の愛、私の幸せです。私の富、私の喜び、私の幸福、このようなものを先立てます。世界のほとんどの人たちはそのようにお祈りします。イエス様は、それは祈りの本質ではないとおっしゃるのです。「神様の国、神様のみ旨、神様の願いが、天で成されるように、地でも成し遂げられますように」。まず神様を賛美して、神様の国のため、神様のみ旨成就のために祈らなければならないと、このように教えておられるのです。

 韓国も昨年、一年の間に二回、北朝鮮によって大きな危機に直面しました。まず、哨戒艦“天安”を沈没させられ、46人が死にました。次に延平島に砲撃を加えられました。これはほとんど戦争の直前、戦争状態ですね。ある一瞬に、北朝鮮が決定だけ下せば、ソウルを攻撃することができました。一触即発の危機にあったわけです。

 そのような状況下で、お父様が「麗水で精誠をささげなさい」とおっしゃって、私は麗水に行きました。私はそこで食口のかたがたに、「韓国が安全になるように、韓国が今後も繁栄を続けるようにお祈りしましょう」とは言いませんでした。それは、私たちが願っていることにすぎません。私たちの願望なのです。「この国を助けてください、この国を生かしてください」、そのような個人祈祷をする時間ではないのです。先に祈るべきは、神様の偉大さ、神様がすべてを主管されるということです。

主を受け入れること

 私は韓国の食口の方々に次のように言いました。「韓国、世界の地図から見ると、ピーナッツのような小さな国が、なぜ特別な神様の愛を受けなければいけないと思うのですか?

 もしイスラエルがすべての摂理を完成させていたならば、韓国が中心国家になることはありえなかったのです。中東のイスラエルが中心国家です。

 神様が選ばれた民族が、選ばれたからといって、全てのことが終わるわけではないのです。そこには責任が伴うのです。選ばれた民族には『主を受け入れる』という責任があるのです。戦争が起こりかけている状況の中で、私たちはただ単に南北統一のために祈るのではなく、『神様の国と神様のみ旨が成し遂げられますように』と祈らなければいけないのです。私たちが願うからそれを祈るのではないのです。神様の願いを祈らなければならないのです。

 このたび、日本でこのような事態(東日本大地震)が起こったために、多くの人々が改めて“生きる”ということを考えています。生死の問題、霊界のことに対して、再び考えている人が大勢いるはずです。日本が責任を果たせなかったから地震が起こった、というようなことを言ってはなりません。日本の食口の皆さんの精誠が不足して、このような災害が起こったということを言わないでください。日本の食口の方々の精誠と信仰に大きな拍手をお願いします。

 【TODAY’S WORLD JAPAN 3月号より抜粋・編集】

信仰生活

信仰の意味ナイジェリア大会①20110718写真加工済み

 皆さんは愛の根を探さなければなりません。すなわち、神様の愛を探さなければならないのです。パウロは「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である(コリントⅠ13/13)」と言いました。皆さん、信仰とはなんですか?“信じる”という漢字から人偏を取ると“言”が残ります。信仰とは結局、人の言葉を意味します。このとき、言葉とは人と人の関係を結んでくれるものを意味します。関係がなければ言葉が出てこないので、言葉を言うときにはすでに相対基準ができているのです。また、関係が結ばれるには信仰がなければなりません。

 このような根本はどこから来たのでしょうか?愛による因縁から出てきたのです。でも、その因縁は自分勝手に結べるわけではありません。この因縁を結べる力というものがあり、目的とする基準がお互いに一致できたので結べたということです。

 私たちのいう信仰とは何かというと、真なる人の人格を中心として、その人格を追求していくことです。また、そのような人格を追求しながら生きていくのが信仰生活です。

 “信”という字を見ると、人に言葉の言、そして“仰”も人偏があります。これも人を抜きにしていません。人を中心とするのではなく、尊敬する対象を中心とすることです。そういう位置から私たちが真のみ言を追求していき、そのみ言を通して一つの方向を成立させるためのものが信仰生活なのです。

 信仰生活について考えるとき、その対象はすでに自分ではなく神様なのです。あくまでも神様に対していく道です。すなわち、主体と対象の関係が神様と自分の間に結ばれ、主体から生じる事実が対象に至るようになり、対象によっておこることが主体にも関係されなければならないということです。こういう関係が結ばれなければ、み言とともに成される自分自身になることはできません。

信仰の目的とは何か

 信仰者に一番必要なものは、明確な目標です。「私は必ずこの道を行く」という確実な目標です。この目標があやふやになると信仰者の生活は崩れてしまい、いくら決意をして覚悟を決めても目的とは何らの関係もなくなってしまうのです。目的もなく、100回覚悟を決めたとしても、どうなるというのですか?目的を明確にさせて覚悟を決めるのなら、目標の前に一歩でも近づけるけれども、曖昧な目標ではどんなに決意しても少しも役に立ちません。

 永遠な生命の世界を追求するのが信仰生活です。永遠な神様の愛を追求するのが信仰なのです。永遠な生命と永遠な愛とを一致させるために、神様の喜びと自分の喜びが合わさり、しかも二つの喜びではなく一つの喜びとして感じることができる最終点を見出すのが信仰の道です。そのため、信仰生活をする私たちの個体がどれほど前進的な愛と生命力を持てるかが、何よりも重要な問題とならざるをえないのです。信仰生活とは総合的な生活です。

信仰生活の第一条

 宗教は、神様と人間との関係を結んでくれるものです。その関係を何でもって結ぶのでしょう?愛で結ぶのです。その愛は、主人と僕の因縁でもなく、国と国民の因縁で結ぶのでもありません。神様を自分の父とする父子の因縁で結ぶ因縁なのです。「神様は私の父である。神様はどうしても私を愛さずにはいられない」と言える信仰は素晴らしい信仰です。

 「信仰者は絶対的に神様を信じよ!絶対的に神様の前に帰依せよ!神様を中心として完全に立て!」というのが信仰の第一条です。どんな宗教であれ、これが信仰者たちに第一条となっていることを知らなければなりません。その次、二番目は何でしょうか?「原理、神様の立てた法と一つになれ、法と完全に一つになれ」ということです。

 最高の基準に対する中心性を認め、その責任を果たすことが最高の善なのです。宇宙の最高峰は神様です。それで神様のためにすべてを捧げなさいというのです。それが信仰の第一条です。神様の勝利とは、全宇宙が含まれます。ですから、皆さんは神様のためなら盲目的であってもよいから、ありったけの力を出して苦労しなさいというのです。

 信仰者たちはどのように生きていかなければならないのでしょうか?変わってしまう理念の条件を持ちながら生活するのではありません。変わらない不変の理念を回復するわけですが、その理念は別々に離れたものではなく、自分の生活圏内において全体が一つの理念で連結されているという事実を知ったうえで、自ら神様と関係した生活をしていかなければなりません。

【二世の道p212より抜粋】

後天時代の摂理的意義

 真の父母様は、陽暦4月24日、韓国仁川での講演文の中で「私は去る天暦3月16日(陽暦4月18日)、『第52回聖婚記念日』を迎えて、『後天時代』を宣布しました。」と語られていますので、今回は「後天時代の摂理的意義」と題して、整理し説明したいと思います。

 

摂理的経過

 

1 後天時代の宣布

 

 2004年5月5日に、後天時代の宣布がなされました。すなわち、人類始祖アダムとエバの堕落より始まった、悪なるサタン王国時代としての先天時代が、5月4日をもって過ぎ去り、5月5日から創造本然の神様の平和王国が建設される後天時代が始まったということです。

 

2 禧年と後天時代

 

 平和メッセージ13の中で、「私は、今年天一国7年(2007年)に摂理的次元の禧年を宣布しました。」と語られ、更に「サタン主管圏、すなわち悪主権の先天時代がついに終わり、この年を頂点として、新しい善主権の時代である後天開闢の時代を大きく開いていくことができるようになったのです。」と述べておられますように、禧年とは“後天時代”と実質的には同じ内容としての、別の表現であることが分かります。すなわち、上述した2004年の5月5日が“後天時代”の宣布であったとすれば、2007年からは禧年の宣布と共に、実質的、本格的な“後天時代”が出発したと見ることができるのです。

 

3 第52回聖婚記念における後天時代の宣布

 

 最初に述べたように、第52回聖婚記念日の時に真の父母様は再度、後天時代を宣布されました。さて、講演文の中で「今回の巡回路程を通して、後天時代の生活が展開されたということを皆さんが肝に銘じなければなりません」と明確に述べておられるように、2007年からの実質的、本格的な後天時代の出発を背景として、本年より後天時代の生活が展開され、後天時代の完成完結完了の時を迎えたということです。

王であるキリスト その2 : ダビデ王③

ダビデの歌

 

「神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。・・・わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。」(詩篇51・1,8-10)

 

旧約聖書に収められた詩篇は別名「ダビデ」と呼ばれることがありますが、竪琴を奏でて神様を讃美した歌人に相応しい愛称です。150篇の中には“ダビデの歌”とタイトルに記されたものも多くあります。実際にダビデが詠んだ歌かどうかは定かではありません。しかし、その歌には、ダビデの生涯の歩みや、紆余曲折の人生で彼が味わった様々な思いが反映されているとみることができます。

 

悔い折れる王

 

ある時、ダビデは忠実な家臣ウリヤの妻バテシバを見初めて妻とするため、ウリヤを戦場に送って殺させました。神様はダビデの行為をとがめ、預言者ナタンを王のもとに遣わしました。預言者は次のような例え話を語るのです。

 

「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。・・・ひとりの旅びとが、その富んでいる人のもとにきたが、自分の羊または牛のうちから一頭を取って、自分の所にきた旅びとのために調理することを惜しみ、その貧しい人の小羊を取って、これを自分の所にきた人のために調理した」(サムエル下12・1-6)

 

富んだ人の行いに激しく憤ったダビデでしたが、ナタンから「あなたがその人です」と指摘され、悔い折れるばかりでした。ダビデは神様の裁きによる死を免れましたが、バテシバがダビデのために生んだ最初の子はすぐに病気になり、間もなく亡くなりました。

 

悔い改めの詩篇と呼ばれる第51篇をみると、ダビデのこのできごとが思い起こされ、断食しながら地に伏して祈る王の姿が浮かんでくるのです。自らの心を清く創り変えてくださいと切望するところに、神様の恩恵なくしては、生きることのできない罪人の痛切な祈りがあります。人は、神様の心痛を我がこととして感じた時に、初めて悔い折れるのです。

 

聖書は、神様のみ心にかなうことを喜びとし、そこから外れた痛みを感じて、直ちに悔い改める姿を人々にあからさまに見せてくれます。イスラエルの民は、この王を通して神様の前に立つ者の姿勢を教えられてきたのです。

 

躍り上がる神の僕

 

これに先立ち、ダビデがサウル王の後を継いで全イスラエルの王として立てられた時、すぐさまペリシテとの戦いを収拾させなければなりませんでした。ダビデは神様の命ずるままに出陣し、その指示通りに戦って勝利を収めます。

 

かつてペリシテ人に奪われてのち、再び戻ってきた“神の箱”が、二十年間キリアテ・ヤリムのアビナダブの家に安置されていました。ペリシテに勝利したダビデは、“神の箱”をダビデの町エルサレムまで担ぎ上りたいと思いました。都に幕屋を据えて“神の箱”を安置することにより、この国に“神の祝福”がもたらされるのだと確信していたからです。

 

“神の箱”がダビデの町エルサレムに入る時「ダビデは力をきわめて、主の箱の前で踊った。その時ダビデは亜麻布のエポデをつけていた。こうしてダビデとイスラエルの全家とは、喜びの叫びと角笛の音をもって、神の箱をかき上った」(サムエル記下6・14-15)と言います。

 

二枚の石板を納めた“神の箱”を迎えて、あまりの嬉しさに、自ら先頭に立って踊りながら上って行く王の姿がありました。神様のみ言に耳を傾け、それを守ることを喜びとするイスラエルの指導者像が浮び上がるできごとです。神様が人と共にいることを最高の喜びと感じる幼子のごとき神の僕の姿が、この王には見出すことができるのです。

 

しかし、王の心根が理解できなかったサウル王の娘、王妃ミカルは、ダビデの振る舞いは王の威厳を欠くものと蔑みました。そこでダビデ王は答えます。「あなたの父よりも、またその全家よりも、むしろわたしを選んで、主の民イスラエルの君とせられた主の前に踊ったのだ。わたしはまた主の前に踊るであろう。」(サムエル記下6・21)

 

民の前には強き指導者であっても、神様の前にはどこまでも頭を垂れて従順に仕える僕としているのです。イスラエルに神様が願う王の開拓者は、人々が来るべきメシヤ王に侍る姿勢をも示そうとしてきたように思えます。