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Archive for 1月, 2011

王であるキリスト その1:サウル王

 

主は王となられた

 「主は王となり、威光の衣をまとわれます。主は衣をまとい、力をもって帯とされます。まことに、世界は堅く立って、動かされることはありません。あなたの位はいにしえより堅く立ち、あなたはとこしえよりいらせられます。」(詩篇93・1-2)

 イスラエルの讃美歌の中には、王の即位式を示す歌がいくつかあります。祈りの中で「主は王となられた」と高らかに宣言します。神様が統治されるという選民の希望が込められています。それに伴って、来るべきメシヤも王として治められる方と理解してきました。

 しかし、公生涯を歩まれるイエス様の姿には、王の威光は見られず、人々から裏切られ十字架に向かう悲惨な姿しか見出すことができません。挙句の果てにユダヤ人たちから「ユダヤ人の王と自称した者だ」と非難される始末です。

 イエス様が神のひとり子であったとしても、その方を迎えるべき洗礼ヨハネとイスラエル民族の基盤がなければ、本来のメシヤ王として役事をなすことができません。人々が理解し難かったのは、洗礼ヨハネの不信の後、イエス様自らが洗礼ヨハネの位置に降りて、身代わりの使命を果たしていたときのことしか記録されていないからです。 

イスラエルの王

 そこで、わたしたちは、復活後に明らかになったイエス様本来の姿を、旧約時代に登場する摂理的人物を通して探り、理解を深めていきたいと思います。

 イスラエルで初めて王として立てられたのは、ベンヤミン族のサウルという青年でした。ベンヤミンは、ヤコブの十二番目の息子の名です。愛する妻ラケルがこの子を産み落として亡くなる間際に「ベンオニ(悲しみの子)」と呼びました。しかし、ヤコブがこれを改め、ベンヤミン(右側の子)と名づけ、誇りある者としたのです。悲しみから喜びへ、民族の誇りへと転じた最愛の末息子、その運命を引き継いだサウルもまた、喜び、栄光、悲しみの曲折を味わう王となりました。

 イスラエルの国が王を戴くようになったのは、次のような経緯がありました。エジプトから解放された後、ヨシュアに率いられて約束の地に入ったイスラエル民族は、その地を十二部族で分け合って住みました。近隣には、強大な国々があって、彼らはいつも脅威にさらされていたのです。しかし、敵国の侵略による民族存亡の危機が訪れる度に、神様は必ず、士師と呼ばれる強いカリスマ的な指導者を一部族から起こして敵を追い払いました。

 そうした時代が続いた後、人々は、他の国と同様に民族全体をまとめ統治する王を求めたのです。時の指導者であった士師サムエルは、神様が王であって人間を王とすることを嫌いましたが、神様に尋ねてみると、「彼らのために王をたてよ」(サムエル上8・22)と言うのです。そこで、サムエルは神様が選ばれたサウルに油を注ぎ王としたのです。

サウル王の過ち

 サウルは、父親が見失ったロバを探しにきて、サムエルと出会いました。「若くて麗しく、民のだれよりも肩から上、背が高かった」(同9・2)という精悍な青年でした。油を注がれた後、神の霊に満たされ、サムエルと共にイスラエルを守るために戦います。

 しかし、ある時、敵対したアマレク人を一人残らず滅ぼせという神様の命令を守らず、肥えた良い羊と牛は連れ帰ってきました。そのために、神様は「サウルを王としたことを悔いる」(同15・11)と言われます。サムエルは、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる」(同15・22)とサウルを諭すのです。

 サムエルには些細なことに思われましたが、神様にとっては重要な意味があったのです。恵まれた能力を持ち、イスラエルをまとめ国力を高めるために勇敢に戦ったサウルでしたが、神様のみ言に従わず、時の願いにかなわなくなったので、神様は彼を棄てざるをえませんでした。サウルに降り注いでいた神霊が去ると、今度は、悪霊が彼を悩ませ、判断を誤らせていくことになるのです。

 真の愛、真の生命、真の血統を携えてこられるメシヤを迎えるために準備されたイスラエルの王でしたが、その使命を果たし得ず、ペリシテ軍に追い詰められたサウルはギルボアで無惨な最期を遂げました。

 最初の王として神様から選ばれながら、神様の計画とそこに秘められた深い意図をつかみきれなかったサウルは、残念ながら理想のメシヤ王像を示す先駆者とはなりえませんでした。

原理講論を読もう♪⑫

 

天宙を主管する者

 さて今回は創造原理の最後の部分、第6節「人間を中心とする無形実体世界と有形実体世界」について考えてみようと思います。難しい言葉ですが、無形実体世界というのは心や霊界といった実体を持たない世界のこと、そして有形実体世界とは肉体や宇宙といった実体のある世界を意味しています。ちなみに空気や電気といった目には見えないけどその存在が科学で証明されているものは有形実体世界に属します。

 聖書では神様が人間を創られる瞬間をこのように描写しています「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きたものとなった(創2・7)」人間だけはその体だけではまだ“生きた者”ではなく、神様に命を吹き込まれて、やっと“生きた者”になったことがわかります。

 人間は見えない部分の心(性相)と見える部分の体(形状)でできていますが、神様は人間の心の部分を他の存在と比べて特別に創造しました。動物や植物も見えない心の部分を持って創造されています。それは存在し繁殖しようとする“本能”の部分です。動物や植物にとって本能に従うことは、彼らの一生はもちろん、種を存続させるという点で何よりも優先される行動の基準になります。もちろん人間も食欲、睡眠欲、性欲といった本能を備えていますが、人間の心はいつも本能が基準になっているわけではありません。

 神様は人間にだけ霊人体を与えられ、本能以上に正しい善悪観や価値観を持って行動できるように造られました。また霊人体を与えることで、人間が無形実体世界、つまり神様や霊界を感じとることのできる感性を持てるようにしたのです。

 それでは神様はなぜ人間にだけ霊人体を与えられたのでしょうか?原理講論ではその理由を“天宙を主管する者”になってほしかったからだと説明しています。神様はご自身で創造された宇宙を自ら主管することができません。何故かと言うと、神様にその能力がないのではなく、人間以外の存在が神様を感じ取ることができないからです。神様がどんなに愛を送っても、メッセージを送っても人間以外の存在は受け取ることができません。霊人体がないから、神様の主管を受けられないのです。

 そこで神様は霊人体を持っている人間に神様の理想を伝え、代わりに宇宙を主管してもらおうとしたのです。言い換えてみれば人間は無形実体世界の神様・霊界と有形実体世界の宇宙を繋げるパイプ役をしているのです。だから人間の肉体は有形実体世界の代表であり、霊人体は無形実体世界の代表なのです。人間を“小宇宙”と表現するのはこういった理由からなのですが、よくよく考えてみると小宇宙というのは有形実体世界のみ該当しますから、霊界もふくめた“小天宙”と表現するほうが正しいのかもしません。

霊人体と肉体の関係

 さてこの人間の霊人体と肉体は密接な関係を持っていますが、どんな特徴があるのか表で見てみましょう。

表

 肉体と霊人体が一人の人間を構成している期間は地上生活だけです。肉体は120年経てば、誰でも死を迎えることになります。一方、霊人体は死という概念がありませんので、肉体を脱いだ後、霊界で永遠に存在することになります。しかし肉体も霊人体も地上生活においてのみ成長できるという点は共通しています。

 では何故霊人体は永遠に存在するにもかかわらず、成長できる期間は肉体が生存するたった約80年に限られているのでしょうか。表のうち、“成長の条件”を見ると、霊人体の成長は神様の愛とみ言、肉体の善行によってなされます。霊界は神様が主管する世界ですので、神様の愛とみ言に溢れています。ところが霊人体は神様の愛とみ言を受けるだけでは成長しないのです。神様の愛とみ言を行動に移し、善行を行ったとき初めて生力要素という栄養素が霊人体に送られ、成長することができるのです。皆さんが奉仕や他の為に生きたとき、体は疲れているけど心は喜びにあふれ、これ以上ない清々しさを感じたことはありませんか?それは私たちの行動が善い生力要素を霊人体に送ったので、霊人体が元気になり、成長していることの証なのです。逆に私たちが悪なる行動をしたときは、悪い生力要素が霊人体に送られるので、霊人体は成長するどころか悪化する結果を招きます。

 このように肉体は時間が経てば誰でも大人の姿に成長しますが、霊人体の成長は私たちの行動にかかっていますので、善い行いをたくさんしている人は子供でも成熟した清い霊人体になることができます。逆に大人になっても自分のことばかり考え善い行いをしなければ、幼い霊人体のまま霊界に行くことになります。体の成長は時間が経つのを待たなければいけませんが、霊人体の成長は私たちの努力にかかっています。誰よりも綺麗で美しい霊人体に成長できるよう、がんばりましょう!!

全世界に行って福音を宣べ伝えよ

 

宣教のはじまり

 復活されたイエス様に許された弟子たちは、真実の愛によって悔い改めました。さらに聖霊の火を受けて生まれ変わることによって、全く新しい宣教の動きが始まったのです。

 イエス様は弟子たちに、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16・15)と言われ「すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいていっさいのことを守るように教えよ」(マタイ28・19-20)と命じられました。この命令を、自らの生涯をかけて実践すべきビジョンとして受け止めた弟子たちは、すぐさま行動を起こしました。

 彼らが世界の人々に宣べ伝えた内容は、こうでした。「イエスはキリスト(メシヤ)であった。この方は、神のひとり子として、人類の救いのために地上に来られたが、人々から捨てられ、苦しみを受けて、十字架につけられて殺された。しかし、復活して永遠の命に至る道を開かれた。」これが彼らの人生をかけて守るべき真理でした。やがて短く“使徒信条”としてまとめられ、キリスト教徒を導く道標となったのです。

イエス様を指し示すイメージ

 アジア、アフリカ、ローマへと福音を携えて出て行った弟子たちは、イエス様が誰であったのか、わたしたちはその方とどのような関わりを持つべきかを説き明かしていきます。ユダヤ人にはユダヤ人の言葉で、ギリシヤ人にはギリシヤ人の言葉で、それぞれの受ける器に合わせて、様々なイメージを持ちながら復活の主を伝え歩くのです。

 新約聖書では、時に“ユダヤ人の王”そして、時に“預言者”として、時に“大祭司”としてイエス様のことが示されていきます。マタイ福音書には、東方の博士らが「ユダヤ人の王としてお生まれになったかた」と呼び(マタイ2・2)、ヨハネ福音書では、ローマ総督のピラトが「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いた罪状書きを十字架の上にかけさせたとあります(ヨハネ19・19)。ルカ福音書では、イエス様が「預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである」と言われるとき、旧約時代の偉大な預言者エリヤの姿とご自身を重ねて語っています(ルカ4・24)。ヘブル人への手紙では、サレム(エルサレム)の王でアブラハムを迎えて祝福した大祭司メルキゼデクになぞらえながら永遠の大祭司としてイエス像を提示しています。

旧約の完成

 弟子たちが宣べ伝えるイエス様のイメージが時と場所によって多様性を帯びているとしても、源は一つであり、普遍です。

 「モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する。」(ルカ24・44)

 ルカ福音書が記された、復活されたイエス様のことばの中に出てくる“モーセの律法と預言書と詩編”とは、私たちが旧約聖書と呼ぶユダヤ人の聖書全体を指します。ユダヤ人の伝統では、創世記から申命記までの5つの書物は“律法”と呼ばれ、それに続く、ヨシュア記以降のイスラエル建国と王国の歴史を綴った書物は、四大預言者十二小預言者と共に“預言者”の範疇に入れられます。そして、詩篇を代表とする上記以外の讃美、知恵、教訓など諸々の文学形態をとる巻物を“諸書”と呼んでいます。

 イエス様は、神様の摂理歴史の観点から、これら旧約聖書が救い主を迎えるための準備を整えるために書かれていることを解き明かしています。そして、迎えた主は、神様が創造のときたてられた人間のモデルを完成した実体であることを示したかったのでしょう。イエス様は、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・48)と自信を持って言うことのできる方でした。人類始祖アダムとエバの堕落によって失われた完成人間のモデルを神様はようやく見出したのだ、ということに目をむけさせたかったに違いありません。

 しかし、みすぼらしい身なりをして、食べて寝て、野山を駆け巡りながら、不思議な業を為すといっても、親兄弟から理解されない人物を、誰がメシヤだと信じるでしょうか。誰もが疑い、生活をともにした弟子たちも皆躓いてしまいました。

 ところが、最も悲惨な死の道を通って肉体を脱いだ時、はじめてイエス様の真実の姿が見えてきたのです。怨讐を許し、裏切りものを生みかえる真の愛の方だと実感しました。ユダヤ人が期待したような、イスラエル一国の富と繁栄をもたらす王ではなかったけれど、神の真実の愛と生命を与える、生命の主、永遠の王であったと気付いたのです。

原理講論を読もう♪⑪

 

天地創造と成長の三段階

 今回は創造原理の第5節「被造世界の創造過程とその成長期間」について考えてみようと思います。神の天地創造は聖書の最初の部分、創世記1章に記述されています。

 ところで聖書には6日間で天地創造を完成させたと書かれていますが、原理講論ではこの6日間は「日の出と日没の回数によって計算される6日ではなく、創造過程の6段階の期間を表示したものだ」(原理講論P76)と解釈しています。確かに6日間で宇宙を創ってしまうなんて理論的に考えると無理です。しかし全知全能の神様に不可能は無い、もしくは聖書は神の啓示の書なのだから疑うなんてとんでもない(聖書無謬説)、という前提にたって文字通り聖書の6日創造説を信じている人も多くいます。これは聖書を経典とするキリスト教の中でも意見が分かれていて、所属している派によって意見が違います。

 さて旧約聖書は元々ヘブライ語で書かれているのですが、6“日”を意味するヘブライ語“ヨーム”には1日,2日の“日”の意味と共に、“長い時間、特別なできごと”という意味があります。この意味を加味して考えると、天地創造の1日が数千年、数万年であってもおかしくないことになります。実際に科学的に考えても宇宙が6日で完成したとは考えづらく、原理講論で示している通り6段階の期間を通じて完成したと考えるのが自然で、合理的だといえます。

 このように神様が創造したもの、被造物は完成するまでに一定期間=成長期間が必要になります。この完成までの成長期間を聖書では「夕となり、また朝となった。第1日である」(創1・5)と表現しています。夕方から朝になったら2日目にならなければいけないのに、わざわざ“1日目”であると記したのは「被造物が夜という成長期間を経て、朝になって完成したのち、初めて創造目的を完成した被造物として創造理想を実現する為の出発をするようになるから」(原理講論P76)です。この成長期間は三段階(蘇生期、長成期、完成期)に分かれています。

 人間以外の被造物は宇宙を司る自然の法則(主管性と自律性)によって、条件が整った時間が過ぎれば完成するようになっています。例えば土に植えられた種は太陽の光を浴び、土の栄養を摂取し、適度な水分が与えられれば自然に芽を吹き、花を咲かせ、種子を残すようになっています。これでこの植物は完成したといえます。

 ところが、人間だけは周りの環境が整えられ、時間が過ぎても“完成”するわけではありません。もちろん人間もおいしい食事を摂り、適度に運動して、睡眠をとれば、20年が過ぎる頃には肉体は完成されます。しかし精神的に、人格的に成熟していなければ“子供のような大人”と表現されるように、肉体の成熟だけで人間は完成したとみなされません。人間だけは外的要素のみの完成だけではなく、内的な完成も求められているからです。これが神が人間だけに与えられた“責任分担”です。

成長期間における責任分担

 それでは成長期間に私たちが成さなければならない責任分担とはなんでしょうか?それは神から与えられた戒め(純潔、血統)を守って、第一祝福“個性完成(人格完成)”を成就することです。人格を完成するということは神を中心として心と体が一つになることを意味します。ではどのくらい人格完成しているのか、どのくらい成長段階を進んでいるのか、どのようにしたらわかるでしょうか。残念ながらはっきりと知る術は今のところありません。ですが人格を完成するための授受作用のプロセスを見れば、少しだけわかるかもしれません。

 図にあるように人格完成は神を中心に心と体が四位基台を成すことを意味します。この四位基台は神様と私たちの心の授受作用から始まり、その授受作用の愛の動きには順序があります。神様は私たちの心の主体ですので、授受作用においてまず私たちに愛(力)を授けてくれます。つまり、まず神様が私たちに真の愛と、原理とみ言、そして正しい価値観を与えてくれます(第一段階)。私たちの心はそれを受け止め、神の愛を中心に豊かな愛を育て、原理を基本とした正しい価値観を身につけることで神に美を返していきます(第二段階)。そして、神と一つになった心が望むことを、体で実践し、神様に似た人格者になります(第三段階)。もちろんこの授受作用は一度で終わるわけではありません。神は私たちに絶えず愛を与えてくれていますし、私たちも神の愛に応えて行動し続ける必要があります。この繰り返しの果てに“人格完成”があるのです。お父様は心と体が一つになれば「何も考えず行動すればいい」と語られたことがあります。それは神様と一体となった心と体が一つになっているので、考えなくてもその行動は神の願いに沿ったものにならざるをえない、という意味です。

 こうして神を中心に人格完成した者は、結婚を通して家庭を築き、神の直接主管圏に入ります。私たちは神が人間に与えられた戒めを守り、責任分担を全うし、成長期間を完成して初めて神の理想の世界を実現することができます。神の創造理想は真の愛を土台とした真の家庭から始まるOne Family Under Godです。つまり神の創造理想は私たちの心と体の一体化、成長期間の完成なしには考えられないのです。One Family Under Godを実現するため、私たちの心を神の愛と願いに一致させ、行動していきましょう!

弟子たちを再び集めるイエス様

 

エマオの旅人

 イエス様が復活されたという報せは、弟子たちに希望をもたらしました。主を裏切って逃げてしまった弟子たちは、大きな悲しみと自責の念に駆られて、とても辛く苦しい数日を過ごしていました。復活されたイエス様は、そんな弟子たちの一人ひとりを尋ねて、今まで以上に愛をこめて接しながら、彼らの心を解きほぐしていくのです。

 エルサレムを離れてエマオの町に向かって歩く弟子の傍らをより沿うように歩く旅人がいました。二人の弟子たちの話を聞いていると、エルサレムで起こったことを話しています。失意の中にいた弟子たちは「主が復活された」という知らせを聞いてもにわかには信じられず、とぼとぼと歩いていたのです。傍らの旅人は彼らに語りかけ、聖書全体を貫く神様の計画について説き始めるのです。

 だんだんと心が熱くなってきた弟子たちは、この旅人と別れがたく、夕暮れ時だったので、強いて一緒に泊ってくれるよう頼むのでした。夕食の時になってパンを割いて祈る姿に、ようやく霊の目が開かれ、その方がイエス様だと気付くのです。

 弟子たちにとってどれほど大きな希望と喜びであったでしょうか。それにも増して、復活されたイエス様にとってもまた重要なできごとでした。

 「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、言われた、『こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔い改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である。』」(ルカ24・45-47)

ゆるされたペテロ

 主が亡くなられたので、他の弟子と共に故郷のカペナウムに帰ったペテロは、ある日、いつものようにガリラヤの湖に漁に出ました。しかし、その日はどういうわけか一晩中網を投げても一匹も魚はかかりません。すると、疲れ果てた弟子たちに岸辺から声をかける青年がいました。「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば何かとれるだろう」(ヨハネ21・6)半信半疑でやってみると網も張り裂けんばかりの魚がかかったのです。

 その時、ペテロはようやくその青年がイエス様だと気づきました。あわてて岸に上がると、イエス様は炭火を起こして食事を用意して彼らを待っています。ありがたいことに、獲れた魚まで丁寧に焼いて食べさせて下さるので、ペテロは大感激でした。

 心もお腹も満たされたペテロにイエス様は続けて三度尋ねます。「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」(ヨハネ21・15)。最初は嬉しかったペテロも、三度までも続けて聞かれると心が痛くなり、「主よ、あなたはすべてご存知です」(ヨハネ21・17)としか答えられません。それでも、イエス様はその答えに満足して「わたしの羊を養いなさい」(同上)と使命を与えたのです。加えて「わたしに従ってきなさい」(ヨハネ21・19)と念を押すのでした。

 このようにして、十字架にかかる前にイエス様を三度も知らないと否定したペテロを、三度「愛します」との答えもって、もう一度弟子の位置に復帰したのです。

五旬節の日が来て

 復活されたイエス様は、裏切ってばらばらになってしまった弟子たちを一人ひとり尋ねながら、ゆるしと愛を与えました。その限りない愛によって、弟子たちは再びイエス様のもとに集まってきました。そこでイエス様は、彼らをエルサレムに呼び戻し、最後の晩餐の部屋で祈るように指示されました。

 過越祭から50日目の祭には、ユダヤ教の伝統に従って多くのユダヤ人が再び都に上ってくる時です。

 「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」(使徒行伝2・1-4)

 この日、イエス様の母マリヤ、イエス様の兄弟たち、12使徒と120人門徒らがすべて一つとなって祈っているところに、聖霊が降りて来られたのです。その聖霊の働きによって、弟子たちはそれまでとは全く違って、イエス様をキリストとして雄々しく証しながら、そのためならば命をも惜しむことのない、神の子らへと産みかえられたのです。

原理講論を読もう♪⑩

 

愛と美、美と愛

 さて今回は前回に続いて第4節創造本然の価値・愛と美について考えてみようと思います。「愛」という言葉は原理講論にその定義は載っていますが、その定義を憶えたからといって私たちが愛の溢れた人間になれるわけではありませんし、実際の愛はその定義にはまりきらないほど魅力的です。今日は原理講論の範疇の中でそんな愛という情的な力について考えてみようと思います。

 神から分立された二性の実体が、相対基準を造成して授受作用をすることにより四位基台をつくろうとするとき、それらが神の第三対象として合成一体化するために、主体が対象に授ける情的な力を愛といい、対象が主体に与える情的な力を美という。(原理講論P72)

 原理講論の定義において愛とは“主体が対象に与える情的な力”ですが、ここでいう情的な力とは何でしょうか?それは“二人が一つになろうとする力”だと言い換えることができます。夫が妻に情を投入する、妻はそれを受け止めて返す、この情のキャッチボールが繰り返されることで二人は別々の存在ではなく、本当の「夫婦」となります。本当の、という意味は“形だけでない”“真の”という言葉に入れ替えることができます。他にも父親が息子に情を投入し、息子が受け止めて返す情のキャッチボールを繰り返せば、二人は本当の“親子”になります。“二人が一つになろうとする”キャッチボールを原理講論では“神の第三対象として合成一体化するために”行っているのだと説明しているわけです。この情のキャッチボールにおいての一投目、つまり最初に投げる行為を“愛”と呼ぶのです。一投目を受け取って投げ返す行為を“美”と表現します。ここで単純な疑問が生まれます。それでは“美”は“愛”ではないんですか?という疑問です。最初に授けるのは“愛”で受けて返すのは“愛”ではないのは、ちょっと不公平だと思う方もいるかもしれませんが、正確には情のキャッチボールが繰り返されることで“美”と“愛”も一つになっていきます。

 主体と対象とが合成一体化すれば、美にも愛が、愛にも美が内包されるようになる。なぜかといえば、主体と対象とが互いに回転して一体となれば、主体も対称の立場に、対象も主体の立場に立つことができるからである。(原理講論P72)

 例えば親が赤ちゃんをあやす時、親は“愛”を投入しているといえます。赤ちゃんがそれに反応して笑い返したとします。するとその笑顔が親にとってはとてつもなく大きな“美”として返ってくるわけです。赤ちゃんは美を返そうと意識したわけではありませんが、結果的に美を返したと同じことなのです。そのうち赤ちゃんも少しずつ大きくなって親が喜ぶことを意識して行動に移せるようになれば、その“美”には親から受け続けた“愛”が内包されるようになるのです。こうして親の愛にも赤ちゃんの“美”が内包され、子供の“美”にも親の“愛”が内包されて、“美”と“愛”が一つになっていくのです。

 このような四位基台の三対象の愛(父母の愛、夫婦の愛、子女の愛)において、その主体的な愛がまさしく神の愛なのである。それゆえ神の愛は三対象の愛として現れ、四位基台造成のための根本的な力となるのである。(原理講論P73)

愛の成長

 三対象の愛とは、家庭的四位基台(10月号参照)を造成する過程で現れる愛を言います。お父様のみ言の中に“四大心情圏”という言葉がありますが、そのみ言の基になっているのが原理講論のこの部分です。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、そして兄弟姉妹の愛が加わって四大心情圏と呼びます。人間は成長しながら、四大心情圏を体恤するように神様に創られました。赤ん坊として生まれた時は親からの愛を一心に受け、それに感謝し“美”を返していくのが子女の愛です。自分では気がついていなくても私たちは親の愛に反応することで親に美を返していくことができます。少しずつ大きくなると自分と同じくらいの年頃の兄弟姉妹の存在がいることに気がつきます。すごく仲良しになる子もいれば、中には自分とウマの合わない子もいます。しかし色々な兄弟姉妹に出会い、情のキャッチボールをすることで愛の器が少しずつ大きくなっていきます。“ウマの合う人”しか愛せない器から“どんな人でも”愛せる器を備えていくのです。この兄弟姉妹の愛の器は大きければ大きいほど良いといえます。なぜかというと兄弟姉妹の愛の器の広さはそのまま夫婦の愛の深さに繋がってくるからです。夫婦の愛は兄弟姉妹の愛と違い、多くの人と情のキャッチボールをするのではなく、たった一人の相手とどれだけたくさんのキャッチボールを行えるかが鍵になります。最後に父母の愛は子女の愛、兄弟姉妹の愛、夫婦の愛の全ての結晶だと言えます。どんな時でも最高の愛を投入し続ける父母の愛は人間の愛の中で最も崇高で無条件的な愛として捉えられています。

 原理講論ではこの四大心情圏の中に現れる(三対象の愛)の主体的な愛が神様の愛だと力説しています。つまり私たちが親から、兄弟姉妹から、夫から、妻から受けている愛も、そして私たちが親を、兄弟姉妹を、夫を、妻を、そして子供に投入している全て愛のオリジナルは神様の愛なのです。私たちは神様の愛を奇跡や天変地異に見出しがちですが、実は私たちの周りにいる人たちから常に神様の愛を受けているのです。家庭で、学校で、職場で神様の愛を感じ、伝達できる私たち一人ひとりとなっていきましょう。

復活からのはじまり

 

主の降誕のできごと園の墓(20100820)

 12月を迎えて、世界中のキリスト教会ではイエス・キリストのご降誕を準備し、クリスマスを祝う期間となりました。日本もこの時ばかりはキリスト教国にでもなったかのようです。店はクリスマスのデコレーションで飾られ、家々も近頃は電飾に彩られています。華やかなお祝いムードが町中にあふれて、年末のひと時みな浮かれているように見えます。

 ところが、キリスト教の歴史を振り返ってみると、ローマ帝国でキリスト教が公認される四世紀に入るまでは、イエス様の誕生日ということに人はあまり関心を払っていません。

 福音書に記された降誕の物語は、貧しきうまやでお生まれになった救い主の謙虚な姿を示したものだといわれることもあります。み使いたちのお告げがあり、夢の知らせがありで、奇跡的なできごとであると信徒たちからは畏敬の念をもって受け取られます。しかし、実際のところ、注意深く見てみると、貴い神のひとり子の誕生という驚くべきできごとの実際は、あまりにも悲惨な状況にあったことがうかがえます。臨月になっての長旅、宿も決まっておらず、出産に相応しい安全できれいな環境はどこにもありません。神様にとっては、四千年準備して待ちに待った喜ばしい一日であったのに、このような形で迎えなければならなかったかと思うと、あまり触れてほしくなかったのかもしれません。

 幸いにも初代教会のキリスト教徒にとっては、イエス様の死と復活のできごとがあまりにも衝撃的であったし、それに続く聖霊降臨の体験は、他に比べようもないことでしたので、むしろそこに重点を置きました。また、その体験からそれまでのできごとも見直していくことになります。実際、十二弟子たちも、この体験を通してはじめて、これまで一緒に生活してきたイエス様がメシヤであると確信することになったのですから。従って、いずれの福音書も、イエス様の受難と死の記述に続いて、主の復活の証言をもって巻物を締めくくります。

空の墓

 「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に」(マタイ28・1)そのできごとは起こりました。ユダヤ教の暦では、安息日は一週間の七日目になります。安息日が明けると、第一日、第二日と数えていきます。安息日は西洋暦では土曜日に当たりますから、週の初めの日が日曜日になります。

 十字架の下でイエス様の死に立ち会った婦人たちは、主の亡骸を自分の胸に抱いて、大声で泣き叫んだことでしょう。何日も泣き続けていたかったけれども、日没になると安息日が始まるので、そんな余裕もなく、急いで遺体を墓穴に運び、仮に葬りました。
もう一度丁寧に油を塗り亜麻布に包み直して差し上げたいと考えた婦人たちは、安息日が明けた朝早く墓所に向かいました。岩をくりぬいただけの墓穴は、大きな石で塞がれています。か弱い婦人たちだけでは、その石を動かすことはできないのに、イエス様を慕う婦人たちは居ても立ってもいられず出かけてみたのです。

 ところが墓についてみると石はすでに転がされていたので、あわてて中に入ると墓は空っぽでした。彼女たちを待ち受けていたみ使いが彼女たちにこう告げました。「イエスはよみがえって、ここにはおられない。」(マルコ16・6)

 婦人たちはたいそう驚いたことでしょう。にわかには信じられなかったようです。でも、何かとても喜ばしいことに思えてきたので、弟子たちに知らせました。

復活からのはじまり

 もう一つの証言が続きます。墓に行ったマグダラのマリアは外に立って泣いていました。イエス様をとても愛していたので、遺体も見えなくなり悲しくて仕方がなかったのです。すると、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と声をかける人がいました。それはイエス様だったのですが、マリアは気がつかないので声をかけます。「マリアよ」。振り返ったマリアは「ラボニ(先生)」と呼びかけます。イエス様は、これから父の御許にいくのだと告げるのでした。(ヨハネ20・11-18)

 新しい摂理のうねりはまだ始まったばかりです。イエス様は復活されました。サタンが最大の実権行使に出てイエス様の肉体を奪っていきました。しかし、イエス様は絶対信仰、絶対愛、絶対服従を貫き、たとえ肉体を奪われても、その魂はサタンが決して触れることのできない、神様のものであることを示されたので、神様も実権行使して、イエス様を高く挙げられたのです。
弟子たちを再び取り戻す四十日期間の始まりです。公生涯の三年間でなし得なかったことを、この四十日でやろうとするのです。

原理講論を読もう♪⑨

 

万物の価値は何できまる?

 前回は皆さんと創造目的について考えてみましたが、今回は創造原理の第4節創造本然の価値について考えてみようと思います。個人的には創造原理の中で一番よくわからなかったのがこの第4節でした。原理講論を読み終わっても、「それで創造本然の価値って一体なんだったんだろう?」といつも疑問が消えませんでした。このページを読む人の中にも私のように「創造本然の価値」に苦手意識を持っている人もいるかと思いますので、できるだけ噛み砕いて説明してみようと思います。

 私たちは常に万物に支えられて生活しています。空気、光、電気など目に見えないものはもちろん、洋服、食べ物、家など目に見える物質が今日も私たちの生活を安全に豊かにしてくれています。ところで私たちはこうした万物の価値をどのように評価しているでしょうか。ほとんどのケースで「自分にとってどのくらい必要なものか」が基準になると思います。現代の社会で価値の基準になっているのがまさにこの基準です。「人間がどのくらい望んでいるか」という欲望が万物の価値を判断する基準になっています。例えば日本で飲み水はそう貴重なものではありません。いざとなれば水道から出てくる水も十分に飲むことができるからです。私たちはいつでも、どこでも水を手に入れることができるのでその価値を感じませんし、価値を見出そうともしません。しかし日本が史上空前の水不足に陥ったとしましょう。我先にお店で飲料水を購入しようとする状況に陥ると、私たちは水がどれだけ価値があるものか実感することになります。こういった現代の「人間がどのくらい望んでいるか」という欲望を数値化しているのが物の値段です。私たちは無意識のうちに物の値段がそのまま価値に直結していると考えがちです。値段の高いものは価値が高く、値段の低いものは価値が低い、というように。

本物の価値

 それではここで質問です。よく考えてみてください。水は水不足でなければ価値が低く、水不足になればその価値が高まるのでしょうか?それとも水は水自体の不変なる価値を持っているのでしょうか。

~☆☆☆Thinking Time☆☆☆~

 答えは、どちらでもありません。結論から言いますと、水の本当の価値は、神様の願いを叶えようとする人間が水と授受作用するときに初めて生まれるのです。原理講論では万物の価値が決定する過程をこのように説明しています。

 ある個性体の創造本然の価値は、①それ自体のうちに絶対的なものとして内在するものでなく、その個性体が、神の創造理想を中心として、②ある対象として存在する目的と、③それに対する人間主体の創造本然の価値追求欲が相対的関係を結ぶことによって決定する。(原理講論P70)

 番号を振ってみたので順番に見てみましょう。①は水の例で紹介したように、万物の価値は万物の中で絶対的に存在するわけではありません。簡単に言えば、どんなに美しく咲いた花も、その花だけでは本来の価値を発揮できないのです。それでは花の価値を引き出してあげるのは誰でしょうか。②をみると万物は「対象として存在する」と書いてあります。つまり万物の主体に立つものが、万物の本当の価値を引き出すことができるのです。その主体が③の万物に対する「人間主体」です。しかしただ単に人間が万物に接すれば、創造本然の価値が発揮されるわけではありません。「神様の創造理想を中心として」そして「本然の価値追求欲」をもって万物に対するとき万物の本然の価値が発揮されるのです。

 それでは価値を決定する現代社会の「人間がどのくらい望んでいるかという欲望」と原理の「神様の創造理想を中心とした本然の価値追求欲」では一体何が違うのでしょうか。現代は自分勝手な欲望が基準になっているため万物の価値基準が相対的(時間や状況によって変わること)にならざるをえませんが、原理では神様の創造理想が基準になるので全ての人間の価値基準が絶対的になります。つまり万物を通して実現して欲しい神様の願いが人類の共通基準になるので、万物の価値を決定する基準も共通になるのです。

神様の創造理想とその価値

 それでは神様の創造理想とは何でしょうか。神様の創造理想とは神様が創造するときに「こんな世界を創りたいな」という願いを意味します。それは平和な世界、愛の溢れた世界とも表現できますが、お父様のみ言で表現すればOne Family Under Godの実現した世界だということができます。One Family Under Godを実現しようという気持ちで万物に対するとき、人間のために創造された万物は最も美しい価値を発揮することができるのです。

 このように万物は人間次第でその価値を美しく発揮することもできれば、全くその価値を発揮できないこともあります。例えばここに立派な包丁があったとしましょう。長い間、技術を磨いてお客さんが喜んでくれるよう一生懸命働くコックさんが使った場合、この包丁は「名器」という評価を受け、その価値を存分に発揮することができます。逆に強盗が自分勝手な欲望のために使った場合、この包丁は「凶器」という扱いを受け、本然の価値を発揮することはできません。このように私たちが神様の願いに沿って万物に対するか、自分勝手な欲望で万物に対するかで、その価値は180度変わってしまいます。万物を通して実現したい神様の願い、私たちの生活を支えてくれることに対する感謝をもって万物に接してみてください。万物は最高の価値を持って皆さんに応えてくれるはずです。

十字架上のイエス様

 

キリストと共に死に、キリストと共に生きる2349

 神様を愛する者たちは、新約聖書の中に救い主の姿を見出して、その方を慕い仰ぎ、その方の一挙手一投足を倣いたいと思うものです。新約時代を貫くキリスト教精神の真髄がそこにあります。すなわち、万物の創造主、人類の救い主であられる神様を愛するがゆえに、そのひとり子イエス・キリストと共に死に、共に生きようとすることです。そのため、信仰者はイエス・キリストの受難を思い起こし祈るのです。

 神のみ旨の最前線に立つ人々を迫害していたパウロは、復活されたイエス様によって霊の目が開かれ、産みかえられて“使徒”として召されました。彼はこう言います。

 「わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためなのである。」(ローマ人への手紙6・4)

 お父様はかつてこう祈られました。

 「十字架の正しい意味を知ることができない者は、十字架の救いを受けることができず、十字架に向かうときのイエス様の心情を体恤できない者は、真理の立場に立つことができないということを知っておりますので、お父様、この時間集まった息子・娘たちを哀れにお思いください。」(「キリストの心情を体恤させてください」1957年6月30日)

ゴルゴタのイエス様

 では、ゴルゴタの丘の上で、イエス様に起こった出来事を見てみましょう。

 イエス様はゲッセマネで捕らえられた後、大祭司カヤパの邸に連れ込まれ、地下の洞窟に一晩吊るされました。翌朝、ローマ総督ピラトの下に引き出され、裁判を受けます。ローマの法律では罪を見出せなかったピラトは、イエス様を憎む大祭司、律法学者らに扇動された群衆の圧力に屈して、イエス様を十字架で処刑することを許してしまいました。

 十字架を担い、石畳を歩かされてゴルゴタの丘に着いた時、イエス様は引き倒され、十字架の木に押し付けられて、両手両足に釘を打たれて磔にされます。立ち会ったローマ兵たちは、歩かされるイエス様に紫の衣を着せ、いばらの冠を押しかぶせて侮辱してきました。十字架上でも、イエス様の衣を奪い合い、貴いメシヤを裸にして、息絶えるまで放置したのです。傍らには、左右に二人の盗賊が同様に磔の刑に処せられていました。

 受難の場面を目の当たりにする時に、神様が世を救うために送って下さったひとり子が人々から拒絶され、苦痛を受けておられる姿が目に飛び込んできます。その苦痛は、肉体的なものもさることながら、霊的格闘によるところがさらに大きかったのです。

イエス様の“渇き”

 十字架の傍らを通りかかった者たちがイエス様を見て罵るのです。「もし神の子なら、自分を救え、そして十字架からおりてこい」(マタイ27・40)これに同調して、祭司長、律法学者、長老たちも嘲笑し、一緒に十字架につけられた強盗どもまでも罵ったといいます。(同27・44)ルカ福音書には、左の盗賊の罵りの言葉まで記されています。その言葉は毒矢のようにイエス様の心情に突き刺さったことでしょう。それは、誘惑の山で断食を終えたイエス様に言い寄るサタンのささやきと同じです。

 そんな人々を抱えて「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23・34)と執り成すのです。天の父である神様と、神の子として創造された人類の関係を結び直すために来られたイエス様であったので、どのような誘惑や試練の中にあっても、天宙の中心であり宇宙の根本である父子関係を切ることはできないのです。

 イエス様は息を引き取られる前、「わたしは、かわく」と言われました。(ヨハネ19・28)神様の4000年の復帰の心情を携えてこられたイエス様は、天の父と同様にわが子を抱いて親として存分に愛したい衝動を覚えたことでしょう。しかし、33年の生涯を歩まれても、愛する子を見出すことができず、愛を交わす相対も得られないために、真の愛の“渇き”を感じられたのではないでしょうか。そのような心の痛みを抱えながらも、神様のみ旨の前には、絶対信仰、絶対愛、絶対従順を貫いていかれたイエス様でした。それ故に、復活の道が開かれたのです。

原理講論を読もう♪⑧

 

神の創造目的

 さて今回は創造原理の第三章「創造目的」を皆さんと考えてみようと思います。「創造目的」とは「神様が人間を創造された目的」を短くした言葉です。皆さんもたまに思いに耽ったりすると「どうして自分はこの世に生まれてきたのだろう?」「自分は人生で何をすべきなのだろう?」と考えたことがあるかもしれません。それは現代の私たちだけでなく、過去の先人たちも悩み続けた課題でした。しかし、その答えを確かな根拠と実体をもって提示してくれた人はいませんでした。今月はそんな途方もない疑問の答えを、原理を通して探してみようと思います。

 さて創造目的を考える前に一つ例を挙げてみます。皆さんの置時計が自分の創造目的について悩んだとしましょう。毎日机の上に置かれ、針を刻み続け、毎朝定刻にベルを鳴らして過ごしながら疑問を持ちます。「どうして自分は存在しているんだろう?」置時計は自問自答し続けますが答えは出ません。隣の腕時計に聞いてもよくわかりません。では誰に質問するべきでしょうか?それは置時計を作ってくれた人間に聞くのが一番正確です。何故なら人間は意図を持って置時計を作ったのですから。「君は人間に時間を正確に伝達するために存在しているんだよ」と置時計を作った人に教えてもらうのが最も正しい答えなのです。もしも置時計が自分勝手に存在目的を設定したらどうなってしまうでしょうか。「そうだ!自分はカラフルだから、きっとアンティークとして作られたんだ」と思い込んで、針を刻むのをやめてふんぞり返ったしまったとしましょう。すると置時計は自分の本来の創造目的を果たせていないため、その存在価値を発揮できなくなってしまいます。あくまでも創造目的とは自分勝手に設定できるものではなく、創造主との関係性の中にあるのだということを心に留めておいてください。

 さてこういった観点から考えると、人間の創造目的を最もよく把握しているのは創造主である神様だということになります。その神様の創造は聖書の1ページに出てきます。神様は人間を創造する前に宇宙のすべての存在を創造します。そして一つひとつの創造を終えるたびに「良し」とされます。「良し」とするということは、創造前に神様が被造世界のイメージを持っていたことの証拠です。

 そして神様は自分の姿に似せて人間を創った後に次のように祝福します。

「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ。」(創世記1・27)

 これが人間に最初に投げかけた神様の言葉であり、祝福でした。この祝福の言葉こそが神様が人間を創った創造目的であり、人間の生きる指針だと言えます。それでは人間に与えられた祝福を一つずつ読み解いてみましょう。

第一祝福「生めよ」(Be fruitful)

神の第一祝福は個性を完成することにある(原理講論P66)

 これは単に人間として生まれてくることだけを意味するのではありません。英語を見ればわかりやすいですが人間として「成熟する」「完成する」という意味が込められています。人間として成熟するということは神様の願いを中心にして心身一体となった人格者に成長することを意味します。聖書ではこのような人格者を「神の宮」(コリントⅠ3・16)と呼んでいます。第一祝福を完成した人は神様の願いと心情を体恤しているため、感情的な喜怒哀楽はもちろん生活自体が神と共にあることを意味します。

第二祝福「ふえよ」(Be Multiple)

神の第二祝福を成就するためには…神を中心として家庭的な四位基台をつくらなければならないのである(原理講論P67)

 個性を完成させて人格者になった男性と女性が出会い、結婚を通して子供を産み、理想家庭を築くことを意味しています。ここで大事なのは男性と女性が結婚前に神様と一体となり、両者が神様の願いと価値を理解した土台を持って結婚に臨むことです。そうすることで自然と神様を中心とした家庭を築くことができるからです。(家庭的四位基台は10月号の四位基台で説明しましたので参考にして下さい)

第三祝福「 地を従わせよ」(Subdue it)

神の第三祝福は万物世界に対する人間の主管性の完成を意味する。(原理講論P68)

 理想的な家庭を築いた人間が万物の真なる主人となることを意味します。万物の主人になるということは万物の価値を誰よりも引き出し、人間と万物が調和をなした理想世界を築くことができなければいけません。万物との調和をなした理想世界とは、自然と人類が共存する自然破壊や環境汚染とは無縁の共存社会を意味します。そのためには個人にとどまらず、家庭、氏族、民族、国家、世界人類が真なる万物の主人にならなければいけません。本来人間始祖が堕落しなければ、アダムとエバの家庭が世界へと広がり確実に理想世界を築くことができたはずでした。しかし堕落してしまったため人間は万物の本当の価値を引き出すことができず、環境汚染などの問題に直面しているのです。

 “原理講論を読もう⑥”の正分合作用の部分でも説明しましたが、神様は自身の無限大の愛を投入できる存在を求めて創造の扉を開きました。「愛することを通じて喜びを得ようとする情的な衝動」による創造、これが心情動機説です。喜びを得ようとするために神様が人間を創ったのであれば、人間が創られた目的は神様に喜びを返すことになります。だからといって神様は自分の喜びだけのために、自分本位で人間を創造したのではありません。自分の息子娘に最高の愛を投入し、彼らが幸せになる姿に無上の喜びを感じる神様なのです。ですから私たちが三代祝福を成就しながら幸せになり、神様に大きな喜びを返していくことが、何よりも人生の目的を果たしていくことなのです。